五王戦国志7 暁闇篇 井上祐美子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)征《せい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)前〈琅〉公|藺孟琥《りんもうこ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から1字上げ]井上祐美子 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/07_000.jpg)入る] 〈カバー〉 中原に激震走る! 見果てぬ夢の達成を目前に異郷の戦陣に没した〈征《せい》〉王|魚支吾《ぎょしご》 野望の果てに残ったのは人民の疲弊、王宮に渦巻く謀略 千載一遇の好機に眠れる大国〈衛《えい》〉、ついに動く 動乱の風をはらんで〈琅《ろう》〉も反撃の挙に出るが—— 覇王の玉座は誰の手に!? COMMENT 井上祐美子 Yumiko Inoue 今回、作中人物も作者も、思わぬアクシデントをくらいました。作者が、右往左往しながらも仕事を仕上げられたのは、タフな主人公たちのおかげです。ほんとに、(特に精神的に)頑丈に作っておいて、よかった(笑)。 PROFILE 1958年11月生まれ。兵庫県姫路市出身。中国の歴史を素材にした小説で独自の世界を切りひらく。主著に『非花《はなにあらず》』(小社刊)、『五王戦国志』(C★NOVELSファンタジア)、『紅顔』(講談社)、『桃夭記』『柳絮』(徳間書店)、『長安異神伝』『女将軍伝』(徳間文庫)など。 カバーイラスト/小林智美 カバーデザイン/森 木の実(12 to 12) [#改ページ] [#挿絵(img/07_001.jpg)入る]  五王戦国志7 暁闇篇 [#地から1字上げ]井上祐美子 [#地から1字上げ]中央公論社 [#地から1字上げ]C★NOVELS Fantasia [#地から1字上げ]挿画 小林智美   目  次   序  第一章 王去りし後  第二章 暗闇  第三章 闇の深さ  第四章 玉響   あとがき [#改ページ]  主な登場人物 耿淑夜《こうしゅくや》 [#ここから3字下げ] 一族の仇《かたき》である堂兄《どうけい》・無影の暗殺に失敗し逃亡中、羅旋にひろわれ〈奎《けい》〉軍に加わる。謀士《ぼうし》として〈衛《えい》〉〈征《せい》〉に対するが、義京《ぎきょう》の乱後、羅旋と袂《たもと》をわかち大牙とともに〈容《よう》〉に亡命。下級の位に就きつつ、大牙を支え〈奎〉の再興を志したが、〈琅《ろう》〉に敗北。羅旋に乞われ〈琅〉の臣となる。 [#ここで字下げ終わり] 赫羅旋《かくらせん》 [#ここから3字下げ] 西方の戎《じゅう》族出身。元〈魁《かい》〉の戎華《じゅうか》将軍・赫延射《かくえんや》の子。豪放磊落で胆力にすぐれる。侠《きょう》の集団を率いて〈奎《けい》〉軍に加わったが義京の乱で敗走、西方に逃れた。居を定めた辺境国〈琅〉の内乱で藺如白を助けその義子となる。 [#ここで字下げ終わり] 段大牙《だんたいが》 [#ここから3字下げ] 〈奎《けい》〉伯国の世嗣として〈魁〉王朝の秩序を守らんと挙兵。〈衛《えい》〉〈征《せい》〉と対峙中に王都義京で太宰・子懐《しかい》が〈魁〉王を弑逆《しいぎゃく》したため敗走し、父と兄そして封国を失った。〈容〉に亡命後、北方諸国連合の王に推戴《すいたい》され〈奎〉の再興を志すが〈琅〉と戦闘の末、敗れて西域に流罪となった。羅旋の説得を受け、〈奎〉の遺臣を率いて〈琅〉軍に加わる。 [#ここで字下げ終わり] 冀小狛《きしょうはく》 [#ここから3字下げ] 〈奎〉の老将軍。義京の乱後もずっと大牙に仕えている。剛毅にして実直。 [#ここで字下げ終わり] 藺如白《りんじょはく》 [#ここから3字下げ] 西方の辺境国〈琅〉の国主。羅旋の助力を得て異母弟との政争に勝ち、小国の生き残りを賭けた国内の改革に着手。身分に拘らない人材登用で国力を増し、中原三大国のひとつとなる。 [#ここで字下げ終わり] 耿無影《こうむえい》 [#ここから3字下げ] 淑夜の堂兄。主君を弑逆《しいぎゃく》、己の一族をも滅ぼして〈衛〉の公位を簒奪《さんだつ》した。性、狷介《けんかい》だが、怜悧な手腕で〈征〉に次ぐ南方の大国〈衛〉を能《よ》く治め、中原の制覇に野心を燃やす。義京の乱後、王を名乗る。 [#ここで字下げ終わり] 魚《ぎょ》 佩《はい》 [#ここから3字下げ] 〈魁〉王朝の滅亡を仕掛けた父・支吾《しご》急逝のため十二歳の若さで東方の大国〈征〉の王となる。かつての〈魁〉領、〈奎〉領、〈容〉領を包括する版図は中原最大。 [#ここで字下げ終わり] 漆離伯要《しつりはくよう》 [#ここから3字下げ] 礼学を修めた〈征〉の謀士。斟酌《しんしゃく》せぬ発言から廷臣たちに疎《うと》ましく思われているが、魚支吾の信あつく、新都建設を任されていた。佩の学問上の師でもあり、支吾の死後、権力を手中にする。 [#ここで字下げ終わり] 禽不理《きんふり》 [#ここから3字下げ] 〈征〉の太宰にして名将軍。代々〈征〉に仕えた旧家の出。 [#ここで字下げ終わり] 尤暁華《ゆうぎょうか》 [#ここから3字下げ] 中原屈指の富商・尤家の女当主。〈魁〉の王都義京で、女ながら大国を相手に商売をとりしきる一方、段大牙や赫羅旋らを背後から援助した。義京の乱で〈魁〉が滅亡してのち、無影と結び〈衛〉に拠点を移した。中原全土に交易網をめぐらす。 [#ここで字下げ終わり] 揺《よう》 珠《しゅ》 [#ここから3字下げ] 嬰児のころに〈魁〉の王太孫《おうたいそん》の妃となるが死別。義京の乱後〈琅〉に移る。兄である前〈琅〉公|藺孟琥《りんもうこ》も病死、血縁は伯父如白のみとなる。 [#ここで字下げ終わり] 苳《とう》 児《じ》 [#ここから3字下げ] 段大牙の兄・士羽《しう》の忘れ形見。〈琅〉公のもとに預けられている。聡い子で、未来を予言する不思議な力を持つ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#挿絵(img/07_006.png)入る]  五王戦国志7 暁闇篇      序  魚支吾《ぎょしご》が急逝《きゅうせい》したあと、〈征《せい》〉が大国の座からすべり落ちるのは早かった。〈征〉は〈魁《かい》〉の建国と同時にたてられた、由緒ある国だった。その封土の広さといい豊かさといい、〈魁〉を凌《しの》いで中原《ちゅうげん》一の強国といってよかった。  それがあっけなく急落したのは、まず、連年の戦の負担が限界に達していたためだ。二度にわたる魚支吾の親征《しんせい》に加えて、それ以前からの軍事力の強化は、土地から働き手を奪うこととなった。武器等の増産は、資源と技術さえあれば可能だが、農作物はそういうわけにはいかない。天候には恵まれて、激減というわけではなかったが、確実に収穫量が減っていた〈征〉は、備蓄を食いつぶさざるを得なくなっていた。 〈奎《けい》〉を、そして〈琅《ろう》〉までを制圧していれば、事情は少し変わっていただろう。急激な好転は望めないまでも、絶対的な優位を確保した〈征〉は、以後、五年は戦をせずにすんだはずだ。その間に、国を立て直すことは、魚支吾にとってはむずかしいことではなかったろう。  だが、目算は魚支吾ひとりの死によって、簡単にくずれた。後にたったまだ若い魚佩《ぎょはい》には、父の覇業《はぎょう》を理解するだけの器量が欠けていた。おそらく、だれがたったとしても、魚支吾の後を完全に受け継ぐことは不可能だったのではなかろうか。 〈征〉の没落を、魚支吾の死後の権臣《けんしん》の失策のせいにする見方もあるが、どれほどの名臣が補佐したとしても、王に国を統率《とうそつ》する強い意志がないかぎり、停滞《ていたい》するのは必至だったろう。  こうして、〈奎〉王についで、〈征〉王がその座から去った。  一方、〈衛《えい》〉の力は、この時、頂点に達していた。謀略などを弄《ろう》さなくとも、純粋な軍事行動だけで、他の国を圧倒することができただろう。ただし、三国の間の微妙な均衡を考えれば、急ぐ必要はなかった。 〈征〉が勢力を伸張するおそれは、まずなかったし、野心をみせたところで、〈衛〉の方が国力は上回っていた。〈琅〉は、騎馬兵の強さを見せつけてはいたものの、国全体の絶対的な兵力は少なく、〈衛〉から仕掛けないかぎり、正面きって戦おうとはしなかっただろう。  だが、〈衛〉は動いた。〈征〉の見せた隙を、見逃すことができなかったのだ。 〈衛〉には、人材が少なかった。実務にあたる人材ではなく、〈衛〉王・耿無影《こうむえい》を制止できる人材である。冷静なようで短気な無影の性格を知り尽くし、彼の怒りを弁舌でかわし、上手にそらすだけの度胸と才知を備えた者は、〈衛〉には決して仕えなかった。  耿無影は絶対の自信をもち、満を持して中原の統一に乗り出した。その絶頂の時が、長く続くと信じていたのはまちがいない。だが、機はまだ熟し切ってはいなかったのだ。  時期尚早《じきしょうそう》という点では、〈琅〉もまた同様だった。もしも、不測の事態が起きていなかったら、〈琅〉は獲得した新しい版図《はんと》を守ることだけに専念していただろう。そして、それで手一杯だったはずだ。まちがっても、無謀な賭けに出るような真似はしなかった。そういう意味では、王も五人の国相も、忍耐強かった。そして——。  その中で、赫羅旋《かくらせん》という漢《おとこ》だけがさらに、不利を有利に逆転させて、行動にふみきるだけの判断力と決断力をもっていたのだった。  五王時代の最後の王が登場した時、時代は最後の激流となってほとばしりはじめたのだった。 [#改ページ]  第一章————————王去りし後      (一) 「よう、ふたりとも、まだくたばってなかったのか」  半年ぶりに再会した時の、大牙《たいが》の第一声は、そんな憎まれ口だった。 「俺を、この巨鹿関《ころくかん》に捨ておいたまま、何か月も知らん顔だ。てっきり、勝ち戦《いくさ》に浮かれて、俺のことなんぞ忘れてしまったかと思っていた」  皮肉まじりの声音《こわね》は陽気なものだったが、半分ちかくは本物の怒気《どき》がこもっていた。いわれた方もそれには気づいていたが、ひとりは笑って受けながす余裕を、そしてもうひとりは、 「ぬかせ。東奔西走《とうほんせいそう》していた俺たちの苦労が、おまえにわかってたまるか。今からでも遅くない、代わってやるから、安邑《あんゆう》まで十日で往復してくるか」  顔の半分をしかめながら、軽く相手をしてやる度量《どりょう》をもっていた。伸びた髭《ひげ》と茶色い髪、それに削《そ》げたような鼻梁《びりょう》が、彼らの経験してきた過酷《かこく》な半年を物語っていた。  大牙の方も、負けてはいない。 「おう、それぐらいたやすいぞ。やってやるから、月芽《げつが》か超光《ちょうこう》を貸せ」 「その手はくわん。そういって、うまく馬をまきあげる気だろう」  相手がいなすと、 「見損《みそこ》なうな、赫羅旋《かくらせん》。馬なら、女房《にょうぼう》の里から、いくらでも調達できる。俺がいっているのは、義京《ぎきょう》や寿夢宮《じゅぼうきゅう》だけならまだしも、青城《せいじょう》を奪還する戦まで、俺にことわりもなしにやってのけた件だ」  かつて、青城を国都としていた〈奎《けい》〉伯の嗣子《しし》・段《だん》大牙は、羅旋の胸ぐらをつかんでつめよった。 「人が真面目に、巨鹿関を死守しているのをいいことに、勝手放題しやがって。俺はともかく、目の前で他人さまに故国《ここく》をとりもどされた、冀小狛《きしょうはく》や他の旧臣たちが、はいそうですかとありがたがると思ったか」 「大牙さま。私たちなら、頭領《とうりょう》や淑夜《しゅくや》さまに感謝こそすれ、不満など持ってはいませんが」  ひとりいきりたつ大牙の左後ろに立つ、長身の青年が、おだやかな口調でなだめにかかると、 「わかっている、そんなことは」  大牙は一喝《いっかつ》してしりぞけた。もっとも、本気で怒鳴ったわけではないことは、怒鳴られた本人が一番よく知っている。右後ろに立つ、紅い服の人物が、 「徐夫余《じょふよ》、口出しをすると、この人はよけいに意地になる。好きに言わせておいた方がいい」  透きとおった女の声で笑った。長い黒髪を編みおろした、目もとの美しい戎族《じゅうぞく》の女だ。 「玻理《はり》、おまえも黙っていろ」  大牙の口調は妻にも厳しかったが、その顔つきはいささか迫力が減じていた。 「こいつらには、いうべき事ははっきりといって聞かせておかないと、また俺たちを無視した戦を始める」 「といって、この状況下では、他にどうしようもなかったと思うが」  なかば、天を仰《あお》ぎながら羅旋がつぶやくと、 「まあ、不満はあっても、結局、巨鹿関から動かず、東方の敵から守り通してくださったわけですし」  羅旋のかたわらに立った青年が、うなずきながら言葉を引きついだ。 「あれで、東から〈征《せい》〉なり〈衛《えい》〉なりが雪崩《なだ》れこんできていたら、義京も青城も奪回どころの話ではありませんでしたから」  半年前のことだ。  かつての〈容《よう》〉を手にいれ、北方諸国の封土《ほうど》に手を伸ばしてきた東の大国〈征〉は、勢いをかって、最西に位置する〈琅《ろう》〉の版図《はんと》にまで侵入を開始しようとしていた。  あのまま、何事も起きていなければ、〈琅〉は、国都・安邑にまで攻めこまれていただろう。物量も人員も数でおとる〈琅〉は、敵を国内深くに引きこんで撃つ策しかとれなかった。勝算があるとすれば、羅旋の指揮する騎馬兵の機動性だけ。奇襲、奇策《きさく》を駆使しても、どれだけの効果があるか——最初の全面衝突となるはずの庸関《ようかん》での対峙《たいじ》中、羅旋たちは暗澹《あんたん》たる思いをかかえたまま、戦端を切る朝を迎えようとしていた。  あの朝——未明、風が吹いていなければ、五叟《ごそう》老人の方術《ほうじゅつ》で霧を生み出し、それにまぎれて奇襲をかける計画だった。〈征〉王・魚支吾の首級《しゅきゅう》のみを狙い、戦の早期決着をはかったのだ。  だが、夜半からの東風が熄《や》まず、結局、方子蘇《ほうしそ》将軍が囮《おとり》となって、〈琅〉側から戦を仕掛けることに決めた。そして——。  いざ、戦端をひらく鏑矢《かぶらや》を飛ばそうとしたその時、〈征〉軍の中から使者が飛び出してきたのだった。  ——〈征〉王・魚支吾、急死。 〈征〉軍にとってはもちろん、羅旋たちにとっても衝撃的な報《しらせ》だった。  もともと、体調がすぐれないことは知られていたが、それでも戦の最前線にまで自ら現れるほどの気迫を見せていたのだ。当然、健康もそこまで回復しているものと、羅旋たちは思っていた。 〈衛〉王・耿無影《こうむえい》が、この〈征〉と〈琅〉の戦のどさくさに紛《まぎ》れて動くことは十分に予測し、予防策もとっていた魚支吾だが、無影に裏をかかれ、国内の城市を奪われた。後背《こうはい》をつかれたことよりも、若僧の無影にまんまと利を占められた怒りが、魚支吾の病を急激に再発させ、生命を縮めたのだ。国土統一を目の前にした覇者にしては、あっけない、そしてある意味では無残な死だった。 「間接的に、無影が殺してくれたようなものですね」  と、ずっとあとになって真相を耳にした淑夜が、嘆息と同時につぶやいた。 〈征〉にとって不幸だったのは、容体の急変に際して、あわてて医師を呼び寄せたために、将兵に異変が知れてしまったことだ。そうなると、魚支吾の死を隠すことはできなかった。無理に隠したところで、確実に風説《ふうせつ》となって広まる、下手をすれば、もっと悪い噂となって将兵の不安をあおることになっただろう。  そう判断した将軍・禽不理《きんふり》は、ほぼ独断で王の喪《も》を発し、〈琅〉に休戦を申し入れたのだった。 「このまま戦をしても、兵たちの不満はつのるばかりだ。そもそも、誰が指揮を執《と》るのだ。だれのために戦をするのだ」  これは、〈征〉が覇者となるための戦だったはずだ。だが、全土の王となるべき魚支吾は没した。後を継ぐべき太子《たいし》・佩《はい》はまだ幼少で、しかもはるか後方の〈容〉に在る。  士気ががくりと落ちた状態でする戦に、勝利できるはずがない。また本国には、すでに〈衛〉軍が侵入してきている。あの時点では辺境をかすめ取る程度だったが、魚支吾の訃報《ふほう》を聞いたあと、耿無影がだまって軍を退くとは、だれも思わないだろう。勢いに乗じて、建設中の新都どころか、国都・臨城《りんじょう》をも衝きかねない。そうなったら、太子・魚佩の即位どころか、〈征〉軍全員が異郷で亡国《ぼうこく》の民《たみ》と化してしまう。 〈征〉の宰相《さいしょう》もつとめる禽不理は、魚支吾亡き後の陣中では最高の地位に在った。その彼が下した最終の決断は、 「将兵を、無事に故国に帰すこと。太子殿下を擁して、〈征〉という国を立て直すこと」  だった。  そんなわけで、〈琅〉はあやういところで命びろいをした。戦は回避され、〈征〉は遠い道程を東へと引きかえしていったのだ。  とはいえ、直後の交渉や撤退がすんなりと進んだわけではない。〈征〉にしても、犠牲をはらって手にいれた〈容〉やそれ以西の土地を簡単に手放すわけにはいかない。どこまで撤退するか、どこまで〈琅〉が所有権を主張するか、〈容〉で踏みとどまった禽不理との間で、何度も交渉が持たれた。  結局、この歳、戦を始める前の状態にということで話がつくまでに、半年かかった。逆にいえば、これで残りの北方諸国の旧領の支配権を、〈琅〉が確立したことになる。  さらに、禽不理は〈容〉に守備兵を残したが、大軍のほとんどは望津《ぼうしん》を越えて〈征〉へ戻した。太子・佩の即位は決定しているものの、その後の国内が安定するという確証はない。いざという時に備えるために、軍事力は都・臨城に集めておくべきだった。  当分、〈征〉は国内問題に終始するだろう。落ち着いたところで、魚佩に、魚支吾以上の覇気と指導力が備わっているとは、だれもが思っていない。  これで、〈琅〉は完全に危機を回避したと、内外ともに思った。  だが、〈琅〉は——正確には羅旋が、戦を止めるわけにはいかなかった。 〈征〉の動きを後背から牽制するために、元の〈奎〉王・段大牙に、〈奎〉の旧臣たちの一軍を率いさせて、巨鹿関を奪わせていたからだ。  西の百花谷関《ひゃっかこくかん》から東の巨鹿関までの間、ふたつの山脈に南北を守られた、細長い土地は、かつて全土を統一した〈魁《かい》〉王のものだった。〈奎〉領も、その中にあった。〈魁〉が滅んだ時に、土地はすべて〈征〉の支配下に入っていたのだが、隙に乗じて、大牙は百花谷関を陥とし、間を一気に駆け抜けて巨鹿関を奪ったのだ。  かつての都・義京にも〈奎〉の国都・青城にも、〈征〉の守備兵はいた。それを、たくみに回避して戦を避けた結果として、大牙は敵の真ん中で立ち往生する形になった。巨鹿関を東に出た喉《のど》もとには、〈征〉が新都を築いているのだ。巨鹿関に拠《よ》ったものの、そのままでは大牙は孤立無援《こりつむえん》の状態である。こうなることは、最初から百も承知の上で、どうしても巨鹿関を押さえる必要があったのだ。  戦が続いていれば、大牙は巨鹿関から新都をうかがい、新都と南の〈衛〉の動きを牽制《けんせい》することになっていた。羅旋たちが〈征〉との戦に勝てば、大牙たちを救出することもできる。負ければ、巨鹿関も敵の手に落ちる。  そんな、のるかそるかの賭けだった。  とりあえず、〈征〉は戦どころではなくなったので、当面、巨鹿関がすぐに攻められるという状況ではなくなった。とはいえ、何かの拍子で戦端が開かれた場合、関の東西から同時に攻めたてられればひとたまりもない。  ただ、義京、青城の兵もまた、〈征〉から切り離された状態であり、魚支吾が没した後の混乱も加わり、新都の兵との連係《れんけい》を企《くわだ》てる者がいなかったのが、大牙にはさいわいしていたのだが。  どちらにしても、百花谷関から巨鹿関までの間は、交通の要所《ようしょ》として確保する必要もあった。  羅旋は、〈琅〉王・藺如白《りんじょはく》の許可を得た上、〈征〉が庸関から撤退した直後からの半年の間、義京をはじめとする関内の拠点を、ひとつずつ攻めていったのだ。  時間がかかったのは、一連の戦が野戦ではなく攻城戦となったせいだ。羅旋の指揮下の兵は、本来は騎馬兵が主で、野戦には強いが、騎馬の技術は城を囲んでの戦にはほとんど役にたたない。もっともこれは、戦車を中心に構成される軍も同様だ。 「各将軍の下から、歩卒《ほそつ》の一割ずつを貸してください。歩卒だけでけっこうです。この際、戦の場に急行する必要は、あまりありませんから。そのかわり、糧食《りょうしょく》や物資を十分に補給していただけますか」 〈琅〉王・藺如白にそう申し出たのは、耿《こう》淑夜だった。羅旋|麾下《きか》の謀士《ぼうし》としての、進言である。 「味方に、極力《きょくりょく》、損害を出したくありません。そのためには、時間がかかるのです。無理に攻めるのではなく、一城ずつ分断し、糧道《りょうどう》と水路を断《た》って降伏させるのが一番ですが、相手にもそれなりの備蓄《びちく》があるでしょうから」  ただ、ある程度、追い詰めてから、生命の保証をしてやれば、かならず降りると淑夜は断言した。 「本国が混乱状態です。死守せよと命令をする者も、その命令の責任をとる者もいません。当面、城内にたてこもる者だけを相手にするわけですから、交渉ははるかに楽です。むろん、その間、巨鹿関への補給も欠かせませんが。大量の物資を一度には無理でも、間道《かんどう》を使えば、餓死しないだけの物量は送りこめるはずです。間道は、こちらの方がよく知っていますし。段大牙が巨鹿関を動かないでさえいてくれれば、半年ほどで一段落させられると思います」  逆にいえば、北方諸国の帰趨《きすう》をめぐる交渉に、それぐらいの時間はかかるとふんだのだ。その間に、実力で切りとれるだけ切りとってしまおうというのは、悪辣《あくらつ》な観《かん》もしないでもないが、 「〈征〉もまた、同様の手段で百花谷関から巨鹿関までの間の土地を、力ずくで奪いとったのです。文句をいえる立場ではないでしょう。奪って住民に重税を課しているわりに、戦略的には活用し切れていないことですし、この際、こちらにいただいて、税を軽くしてやった方が、よほど人のためにもなるかと思います」  そういう一方で、 「場合によっては、交渉の方を引き延ばしていただくことになるかもしれませんが」  淑夜は、含みをもたせて、〈琅〉王・藺如白を苦笑させた。 「我らにかけ引きをしろと、命じるのか」 「いえ、万が一の場合、ということです。おそらく、半年あれば、きれいにかたはつけられると思います」  そのことばどおり、羅旋の軍は義京を陥とすためにふた月、次に周辺の砦《とりで》に数十日、次の青城にはひと月強——という風に、拠点を順番に確保していき、半年で巨鹿関への入城を果たしたのだった。 「大牙が巨鹿関に在《あ》ったおかげで、新都の仇子玉《きゅうしぎょく》が動けませんでした。昔なら、兵はそのまま置いても、自分だけは戦に飛びだして来かねなかったところですが。自重《じちょう》してくださったおかげで、こちらは楽な戦ができましたよ。ありがとうございます」  淑夜は、そういいながら笑った。彼も羅旋も、よく日焼けしている。ただし、淑夜は武装していなかった。大牙や羅旋はもちろんのこと、女の玻理までが胴甲をつけ武器を携《たずさ》えているのに、彼ひとり、袴《こ》に膝下までの上衣という平装のまま、手には杖を持っている他は、剣も佩《は》いていない。  それでいて、緊張した風もない青年に向かって、 「礼などいうな、耿淑夜」  大牙はさらに吠えたてた。 「いわれると、自分が情けなくなる。いくら、おまえらの命令とはいえ、おとなしく他人のいうことを聞いていたなどと、俺もとうとう、やきがまわった——」 「そんなことは」  ない、といおうとするところを、羅旋が制して、 「ほうっておけ、淑夜。こいつは、照れているだけだ」 「誰が照れていると——!」 「わかった、わかったから、この手を離せ。半年ぶりの再会はうれしいが、素直にそういえんのだろう。耳もとで、そう怒鳴るな。どうせ、この半年間、壮棄才《そうきさい》相手にさんざん怒鳴ってきたんだろうが」 「だとしても、おまえにとやかくいわれるいわれはない!」  心底を見透かされて、大牙は真っ赤になりながらも、ようやく手だけは離した。 「あんな陰険《いんけん》な奴を謀士につけてきやがって。なにかというと、俺に反対するんだぞ。これで、おまえに返すからな、羅旋。二度と顔も見たくない」 「だ、そうだ。壮棄才」  ちょうど、巨鹿関の望楼《ぼうろう》からゆっくりと降りてきた男に、羅旋は陽気な声をかけた。 「ご苦労だったな」 「いえ、頭領」  聞こえた証拠にかすかに頭を下げ、小声で返事をしたものの、その男は人々の輪の中には近づこうとはしなかった。しかも、 「では、これで」  もう一度、頭を下げると、顔をそむけるようにしてそそくさと姿を消してしまった。 「変わった男だ」  いまさらのように、大牙が嘆息した。 「何を訊いても、何も答えない。自分の意見を一方的に押しつけてくるかと思えば、駄目だとなると、自分からあっさりひっこめてしまう。悪びれないのはいいが、謝りもしやがらない」  大牙の怒りにも、一理あった。無礼だからと、怒っているのではない。  名家の公子として育ったわりには、大牙は自由|闊達《かったつ》で、人と接する際にも身分の上下をほとんど意識させない。羅旋とは彼が無位無冠《むいむかん》のころからのつき合いであり、庶民《しょみん》の出の徐夫余《じょふよ》にも対等の扱いをする。それだけに、人から隔意《かくい》を置かれることをいやがる傾向が強いのだが、壮棄才はその隔意のかたまりのような男だったから、大牙の不満は爆発寸前となっていたのだ。 「いったい、奴は何を考えている。何が楽しくて、俺たちに加担《かたん》している。昔、よほどつらい目にでもあったようだが」 [#挿絵(img/07_023.png)入る] 「それは、壮棄才の問題だ。他人が話すことではなかろう」  と、羅旋が軽くいなして、 「さて、文句もひととおり聞いたことだし、もういいだろう。とにかく、関の中をひととおり、見せてくれ。あらましは知っているが、俺の知識は七年前のものだ。修理や補強の算段もあるし、今後の相談もある」  話題を、さらりと変えてしまった。いいながら、目の隅で壮棄才の後ろ姿を一瞬、とらえていたことに気づいたのは、一番近くにいた淑夜だけである。 「何もないが、食事の用意はさせておいたが——支度はできているな、玻理《はり》」 「はい、すっかり」 「それは、仕事を済ませてからだな。疲れているなら、先に中に入って休んでいてもいいが、淑夜」 「いえ、私の知識も、七年前のものです。自分の目で確かめておきます。一度、見ておけば、あとは図面だけからでも、策はいくらでもたてられますから」 「七年前か」  嘆息は、羅旋、大牙、淑夜、それに徐夫余の四人の口から、微妙な差をつけて吐き出された。  七年前も、彼らはやはりこの場所で、味方として集まっていた。だが、羅旋はもう、気ままな傭兵ではないし、淑夜も一|布衣《ほい》ではない。一方、〈奎〉の嗣子だった大牙は、今は〈琅〉の一武将にすぎないが、 「俺は、今のこの身分が気にいっている」  一度は王と称したこともある大牙だが、その地位には未練はないときっぱり言った。 「俺はやはり、武人として戦に出ている方が性《しょう》にあっているようだ。張りあいが、違いすぎる。一度、敗れておきながら、なおも命を長らえて、また、おまえたちと肩をならべて戦ができるんだ。これ以上のことを望んだら、罰《ばち》があたる」 「ほんとうに——いろいろ、ありましたね」  平凡な感想だったが、徐夫余のことばには万感の思いがあった。七年前、徴用されてきた一兵卒だった彼は、現在は大牙の身辺を守る長である。ずっと羅旋の副将をつとめてきた彼だが、 「一軍を任せても、十分、やっていけるのではないか」  そんな声も、ささやかれる人材にまで、成長していた。  大牙が、気をふるいたたせるように、視線を上げながら、 「一段落ついたら、青城を一度でいい、見ておきたい。許可はもらえるだろうか」 「当面、巨鹿関の守備は廉亜武《れんあぶ》将軍に任せることに決まっています」  淑夜が、ゆっくりと歩きだしながら、 「しばらくの間、〈奎〉の方々には休息をとってもらうようにとの、王の配慮もいただいています。でも、このあたりの地理に詳しい大牙たちには、万が一に備えて、いつでも巨鹿関の救援に行ける距離にいてもらう必要もある。とりあえず、義京に滞在するように、手配は進めています。その間に、個人的に青城に行くのは、かまわないはずです」  すぐに応じた。 「——親父と兄者の骨だけは、青城にもどしてやりたいんだ」  淑夜と徐夫余が、軽くうなずいた。  先の〈奎〉伯・段之弦《だんしげん》と、大牙の兄・段士羽《だんしう》は、七年前の義京の乱の際に命を落としている。だが、大牙自身が、乱入してくる〈征〉軍の追っ手をふりきって逃げるのに懸命で、ふたりの墓を作るどころではなかった。とりあえず、仮の棺《ひつぎ》におさめて義京に近い山中に埋葬し、目立たないような目印をつけておいたが、それからどうなったか。 「俺はもう、〈奎〉の人間ではないし、どこでのたれ死んでもいいつもりだが、親父と兄者《あにじゃ》は、死ぬまで〈奎〉伯であり〈奎〉の公子だった。その立場にふさわしい格で、きちんと葬ってやりたい」 「そのことなら、すでに人をやって、墓の在処《ありか》の確認をさせてあります」  淑夜の手配には、ぬかりがなかった。 「おふた方の棺は、どちらも無事だとの報告でした。周辺の農民が、守っていてくれたとのことです」  そのひとことで、ほっと大牙の顔は明るくなった。つられるように、徐夫余と玻理の表情も、やわらかなものになる。 「そうか——。下手をしたら、〈征〉軍の奴らに暴《あば》かれているかもしれんと、覚悟はしていたんだが」  非常の際だったから、一国の国主としては信じられないほどの薄葬《はくそう》だったが、それでも剣や身辺の愛用品など、金目のものをいっしょに埋葬している。それを目当てに、墓泥棒をはたらく不届き者もめずらしくない世の中なのだ。 「老伯は、〈魁〉の民にも人気がありましたから。私も、老伯にはどれほどのご恩をこうむったか」  淑夜の声が、少し低くなったが、 「ご希望なら、すぐにでも改葬の手筈をととのえます。ですが、まず陵墓《りょうぼ》の場所を決めていただかないと」 「場所は、先祖代々の土地に決まっているが、日を選ぶ必要があるな」 「とすると、少し時間がかかりますね。では、いっそ安邑から、苳児《とうじ》さまを呼びよせてはいかがですか」 「苳児——そうだな。兄者の血をひくのは、苳児ひとりだ。俺なんぞが供物《くもつ》を積み上げてみせるより、苳児が成長した姿を見せる方が、よほど兄者もよろこぶだろう。だが、ここまで来る間の安全は、確保できるのか」  道筋は、ほぼ〈琅〉が押さえているとはいえ、国とは関係のない野盗《やとう》の類が出ないという保証は、どこにもない。護衛を大勢つければいいことだが、国主の一族ならともかく、羅旋の指揮下にある今の大牙は〈琅〉の陪臣《ばいしん》で、格式からいっても、現実問題からいっても、余計な兵力を動かせる身分ではない。だが、 「その点なら、心配無用です」  と、淑夜はしらりとした表情で告げた。 「近々、玉公主《ぎょくこうしゅ》が義京までおいでになります。その一行に加わって来れば、道中、警備はほぼ、万全といっていいでしょう」 「玉公主——揺珠《ようしゅ》どのが、何故《なぜ》?」  不思議そうにたちどまる大牙にむかって、 「あの時、大切な親族を失ったのは、貴方ひとりではありませんでしたよ」  淑夜は、つい、とがめるような口調になった。  玉公主——〈琅〉王の姪《めい》姫・藺揺珠《りんようしゅ》はその昔、〈魁〉の王太孫《おうたいそん》の正妃だった。物心もつかないころの形だけの政略結婚で、成人する前に「夫」たる王太孫は没したから、〈魁〉との関係はそこで切れているはずだった。だが、揺珠はその後も義理の祖父の衷王《ちゅうおう》に仕え、実の孫のように世話をしていた。衷王は、彼女の血縁の大伯父でもあったから、当然といえば当然かもしれないが、実権を失い、幽閉《ゆうへい》同然の身だった衷王とともに暮らすことは、容易ではなかったはずだ。  王位を壟断《ろうだん》する太宰子懐《たいさいしかい》が、王の暗殺をはかる可能性は常にあった。揺珠がともに殺される場合も、十分にあったはずだ。それでなくとも、寿夢宮《じゅぼうきゅう》に在った衷王は気むずかしく、屈折《くっせつ》していたのを、淑夜はその目で見ている。  根は善良な老人で、揺珠にはおだやかに接していたが、それでもあのころの彼女は、日陰でしおれかけている花のようだった。  それでも、 「義京に行けるようになったら、是非、陛下を改めてお祀《まつ》りしたいのです。肉親の縁の薄い私にとっては、陛下は実の祖父以上、顔も覚えていない父よりも父親らしい方でしたから」  切望したのだという。  ちなみに衷王の遺骸《いがい》は、〈征〉が義京を制圧した時、さがしだされて郊外に葬られている。ただし、乱後の混乱の中のことで、王にふさわしい格式は保たれなかったし、その後の祭祀《さいし》も、〈征〉がほとんど絶え間なく戦を続けているために、おろそかになっている。  揺珠は、できれば寿夢宮近くに改めて陵墓《りょうぼ》を作り、改葬したいと願っていた。  大きな陵墓を築く必要はない。ただ、心やすらかに眠れるようにしてさしあげたいのだという彼女に、伯父・藺如白も許可を下したのだった。  とはいえ、まったくの感傷からの許可ではない。〈魁〉はかつて、この〈坤《こん》〉の大地を統一した国だった。最後の〈魁〉王の祭祀を司《つかさど》るということは、〈魁〉の後継者を自任し、内外に宣言することを意味する。それはそのまま、中原統一の野心を発表することだった。 「儂《わし》に、その資格があるとは思ってはいない。〈琅〉にしたところで、とてもそんな余力はない。だが、事態がこう進んだ以上、我らは辺境で暮らすのだからそっとしておいてくれといっても、聞きいれてはもらえまい」  如白が苦笑まじりにそういうのを、羅旋が聞いている。 「〈衛〉の耿無影が来るか、それとも〈征〉が幼君を守り勢いを盛り返すか、どちらにしても、彼らが中原を統一するためには、〈琅〉が邪魔になってしまった。となると、〈琅〉が生き残る道はそう多くない。今のうちに、天下への野心などありませんと、領土から人民から、そっくりどちらかにくれてやるか、それとも——」  滅ぼされる前に、相手を滅ぼしてしまうか——そのふたつしかあるまい。  前者を選んだ場合にしても、降伏する相手をまちがえれば、いずれ、ともに滅びることになる。 「あと、すべてを放棄して、西へ逃げて戎族になるという手もあるが。それはそれで、戦にもなるだろうし、面倒も起こす。〈琅〉の民、全部を連れてはいけないし、西で生活できるという保証もないことだし」  できるはずもない、と如白は笑い飛ばした。 「ともあれ、やれるところまでやってみよう。五相が力を貸してくれれば、私でも王の真似事ぐらいはつとまるかもしれない」  気負わずに告げて、彼は揺珠の義京行きを許したのだった。 「ひと月後には、義京に入る予定になっていますから、士羽さまたちの改葬の段取りも、その時までに決まれば十分です——どうかしましたか、大牙」  左足の悪い淑夜は、歩く速度が遅い。あまり、目立ったひきずり方はしなくなったし、その気になれば他人に歩調をそろえることも可能だが、今のように話しながら、他に気をとられることがあると、てきめんに遅くなるのだ。  羅旋は、淑夜を特別扱いはせず、こんな時はとっとと先へいってしまう。目的地は同じだからと、徐夫余たちもその後に続き、大牙だけが淑夜に合わせて、ゆっくりと歩いていた。その大牙の歩みが、さらに遅くなったのだ。 「なあ——考えていたんだが」 「はい?」 「〈征〉と〈衛〉、どちらが来る」  唐突な質問にも、淑夜はあわてなかった。 「〈征〉が来ます——みかけは」 「見かけ?」 「というより、〈征〉と〈衛〉が手を結ぶ——いえ、〈征〉が無影に操られるといった方が、的確でしょうか」 「無影は、かつて俺たちと結んだ。それが、〈征〉と手をつなぐだろうか。俺なら、〈征〉が弱体化している今のうちに、〈征〉をたたいてしまうが」 「あれは、魚支吾相手だったからです。新しい〈征〉王はまだ幼少で、しかも家臣たちの間には溝があります。それを、無影が利用しないとは考えにくい」 「ふむ——どうする」 「現在、臨城にいて魚佩を補佐する筆頭《ひっとう》は、漆離伯要《しつりはくよう》という人物だと聞いています。学者出身で改革派、新都の草案を作り、建設にもたずさわってきた人間——才子《さいし》といっていいでしょう。無影なら、この人間をまず、とりこもうとするでしょうね」 「武人肌《ぶじんはだ》の禽不理将軍あたりの方が、あやつるには適当だと思うが」  大牙の指摘は、淑夜の皮肉っぽい笑いで否定された。 「策《さく》を弄《ろう》さない人間を操ったところで、自分が策士だという証明にはなりませんからね」 「ふむ、それはそうだ。無影は、この世で一番頭がいいのは己だと思っているからな。だが、漆離伯要の方も、用心するだろう。簡単に、利用させてくれるか」 「無影の手元には、半年前にどさくさまぎれに切り取った土地があります。これを返すといえば、〈征〉としては断れないはずです」 「——返すのか。せっかく奪った土地を。代償に、何を要求する気だろう」 「代償をとれば、それで取引は清算されてしまいます。でも、何も取らなければ、〈征〉の側に弱みが生まれます。精神的な弱みですが」 「しかし、それなら漆離伯要が警戒するだろう」 「たとえ彼が警戒しても、他の臣たちは受け取るでしょう。何も失わなくてすむというのは、魅力です。有形の物を払えば、それだけ〈征〉の財政や民人の負担になる。ですが、たとえば、ともに手をとって、〈琅〉を倒して先君の仇をとろう、その盟約のしるしに城市を返還するのだといわれたら、飛びつくでしょう。魚支吾の無念を晴らしたいという意見は、もともと〈征〉の内部にあって当然の声ですし、それだけで済むなら、安いと。そうして〈征〉をけしかけておいて、〈衛〉は軍を動かそうとはしないでしょう。〈琅〉と〈征〉がたがいに噛みあって、共倒れになってくれればさいわい。そうならなくとも、長い戦で疲弊したところを叩けば、両者とも簡単に倒せる——筋書きとしては、そうまちがっていないと思います」 「——気を悪くしないでほしいが」  大牙が、笑いを噛み殺しながら口をはさんだ。 「おまえ、やはり耿無影の従兄弟《いとこ》だけのことはあるな」 「人が悪くなったといいたいんですか」 「怒るなよ」 「いまさら、怒りませんよ。羅旋には、この半年、いわれつづけているんですから」 「つまり、羅旋とも同じ話をしたわけだ」 「ええ」  先を行く羅旋の厚い背中を見ながら、大牙は、 「それで——どうすると奴はいった。無影の希望どおり、漆離伯要とぶつかってやるか」 「禽不理将軍と、話をつけようと」 「——可能か」  半年前、直接に対峙し、つい先日まで暫定的な国境の線引きをめぐって交渉していた相手だ。交渉の糸口があるというのは利点だが、手のひらを返したように協力しあえるとは思えない。淑夜も、 「わかりません。それに、禽将軍が今回の責任を取らされるのは確実です。下手をすれば失脚するかもしれません。交渉が一段落しましたから、今日明日にそうなってもおかしくない。でも、支援をする価値はあります。あの国は大国ですが、長年の戦に疲れてもいます。五年十年という単位で、〈征〉と〈琅〉の間の不可侵《ふかしん》の盟約が結べたら、よろこぶのは〈琅〉だけではないはずです。その点を説いて交渉ができるのは、目先の利益につられて無影に踊らされる漆離伯要ではなく、庸関で撤退を決めた禽将軍の方でしょう」 「ふむ。俺にも図式が見えてきた」 「禽不理将軍が復帰するまでは、〈征〉が当面の相手です。漆離伯要が、というべきかもしれません。ですが——」 「そのうちに、無影をひっぱりだしてやる、というわけか」 「私は、最初から無影を相手にしているつもりですけれどね。まず、手はじめに漆離伯要を失脚させる必要はあるでしょう」 「できるか」 「できるだけを、やってみるしかないでしょう」  気負うことなく、淑夜はいい切った。 「私は万能ではありません。それは、無影も同じですから」 「——無理をするなよ」 「同じことを、羅旋にもいわれていますよ」  大牙は、またも苦笑するしかなかった。 「どうせ、俺なんぞが考える程度のことは、みんな先を越されているだろうよ」  淑夜が反応する前に、 「遅いぞ」  陽気な声が飛んできた。確かめるまでもなく、羅旋の声だとわかる。望楼へ上がる手前で、三人がこちらを見ながら待っている。 「とっとと見て回って終わらせないと、せっかくの玻理の心づくしが無駄になる」  緊迫感のかけらもない声が、晴れわたった空にかけのぼっていった。      (二) 「では、庸関《ようかん》から兵を退いたのは、将軍の独断で、陛下の遺言のようなものは一切なかったのですな」  確認する声に、禽不理はうんざりしながらうなずいた。遺言する暇など、あろうはずがない。それほど、魚支吾の死は突然だった。だが、それは誰もが知っていることだし、それ以後のことも、禽不理は隠しだてをしたおぼえはない。いまさら大仰に問われることではないのだが、質問者は、ただ禽不理の立場を悪くするために、ことさら事実を強調しているのだ。 「とすると、みすみす勝てる戦を、貴殿は放棄したことになる。これは、裏切り者と呼ばれても仕方のないことだとは思われませんか——」 「漆離伯要どの」  なおも続けようとする声を、禽不理は低いがはっきりとした口調でさえぎった。 「まわりくどい言い方は、やめてもらおう。儂《わし》は、儂だけの判断で兵を退き、〈琅〉と和議を結んで帰ってきた。戦で勝っても、かならず被害は出る。ひとりでも多くの兵を〈征〉に帰すことの方が、儂には大切に思えたのだ。他に相談する者もなく、責任を取る者もない以上、儂がすべての責任を負うことは、最初から覚悟の上だ。売国奴《ばいこくど》と呼びたいなら、それでもけっこう。陛下がそう決められるなら、儂は抗弁はせぬし、死ぬことも厭《いと》わぬ。きっと、その後はそなたが前線に立って、軍を指揮してくれることだろうしな。半年前、まんまと〈琅〉にだまされたそなたが、な」  彼にはめずらしい長広舌と、最後の嫌味が効いたのだろうか、周囲からざわざわと反応がたちのぼった。  新〈征〉王も臨席の、御前《ごぜん》会議——その実は、魚佩の権威を代行する漆離伯要の意思をうけた朝議《ちょうぎ》である。禽不理が弾劾《だんがい》され、| 政 《まつりごと》の場から外されることは、彼が臨城に帰還してくるまでの半年の間に、すでに決していることだった。 「儂は、逃げかくれをしたおぼえはないし、これから言い訳をする気もない。無駄な論議はやめてもらおう。そなたの、したり顔の演説もたくさんじゃ。決まったことだけを、早く宣告していただこう」  禽不理の背後で、またもや不安そうなどよめきが起きた。挑発によって、相手の心証《しんしょう》を悪くすることを恐れたのだろう。実際、漆離伯要は、もともと禽不理らに比べれば白い顔を、さらに青白くして目をつりあげている。  もともと、あまり仲がよいとはいえない間柄だった。先の戦で、失敗した漆離伯要を禽不理がかばってやったが、それを恩にきて、手ごころをくわえてくるような人間でないことは、禽不理自身がよく知っている。  だが、禽不理はたじろがなかった。  多少、はったりもあったが、まず自分が死罪になることはないと冷静に判断していたのだ。  彼が売国奴だという証拠は、どこをさがしてもない。たとえ捏造《ねつぞう》したとしても、彼がこうして全軍をひきいて帰国したことで、証《あかし》がたつはずだ。本当に〈征〉に不利益をはかったのなら、帰国後の結果がわかっているところへ、のこのこもどって来はしない。  そもそも、〈琅〉との和議をとりつけたのは禽不理である。最終的な決定は、臨城までもどっていた魚佩の裁可を仰がねばならなかったが、〈征〉を代表していたのは禽不理だ。その代表者が殺されたとなったら、〈琅〉がなんと思うか。  いや、真実はどうでもいいのだ。ただ、そうなったら〈琅〉は、 「禽将軍を信用して和議を結んだのだ。その人物を殺したということは、信義を守る気が〈征〉にない証拠だ」  といえばいい。〈琅〉が、国境に明確な防衛施設のない〈容〉に侵入するのはむずかしいことではないし、そこから〈征〉へ攻めこむのも時間の問題となる。そうなった時、〈征〉は老獪《ろうかい》な将軍をひとり、欠いた状態で戦わなければならないのだ——。  これぐらいの図式が読めない漆離伯要ではないはずだ。禽不理をこういった危急《ききゅう》の場合にうまく使ってこそ、策士と呼ばれる意味があることも、十分に知っている男だ。  また、魚佩は幼いとはいっても十代の初めで、病弱だが、けっして暗愚ではない。現に、この場でも目を見張って、懸命にことの成り行きを見定めようとしている。ここで感情的になり、むごい処分の仕方をして、若い君主に嫌悪感を持たれては、のちのちに禍根を残すだろう。 「よろしい」  と、漆離伯要はひとつ咳《せき》ばらいした。 「覚悟がおありとは、けっこうなことです。ではまず、責任をとって国相の座を降りることは、ご承諾いただけますな」 「当然だな」 「陛下から沙汰《さた》が降りるまで、蟄居《ちっきょ》なさることも」 「最初から、そのつもりじゃ」  命じられるより前に、禽不理は腰帯から下がっていた玉佩《ぎょくはい》の綬《じゅ》を解いた。玉《ぎょく》の形や綬の色は、地位と身分を示すものだ。禽不理のものは、王に次ぐ位を示す赤だった。それを、同時に外した剣とともに、王座の魚佩の足もとに置くと、禽不理は深く一礼した。 「禽将軍、許せよ」  まだかん高い少年の声が、頭からふった。 「蟄居は、そう長い間のことではない。また、そのうちにそなたが必要になる時が来るかもしれぬ。気落ちせず、待っていてくれ」 「もったいのうございます」  隣で、漆離伯要がむっとした顔つきをしていた。ふたたび禽不理が〈征〉に必要になる時といえば、漆離伯要が失脚《しっきゃく》するか、それとも彼ひとりでは手におえないほどの大戦になるということだ。ただ、魚佩のことばはそれを期待したわけではなく、純粋に禽不理をなぐさめようとしただけだ。とがめだてができないだけに、漆離伯要は機嫌も悪くなったのだろうが、それは敢えて無視することにした。なにも、禽不理が彼の機嫌をとってやる必要はない。 「それでは」  もう一度、礼を執ると、後も見ずにさっさと帰宅し、ぴたりと門扉を閉じてしまったのは、いかにも武人らしい迅速《じんそく》さだった。彼自身、一室に閉じこもり窓も戸も閉ざし、食事は一日一度、戸の隙からさし入れさせるようにした。  広い邸の内に住まうのは、彼の家族だけではない。一族のだれかれが、禽不理の権勢《けんせい》をたのんで住み着いている。目先のきく者は、主人の帰国前に逃げ出しており、残った者らは覚悟を決め、禽不理の命令に素直にしたがった。罪は、一族にも及ぶというのが、常識だったからだ。  とはいえ、多数の人間が生きるためには、まず、食べる必要がある。穀物《こくもつ》などは、前もってある程度、備蓄しておいたが、肉や青物はそう保存がきくものではない。数日おきに、下働きの者が築地《ついじ》の隙からそっと、人目をはばかりながら買い物に出かけていたのだが、ある日のこと。 「こんなものが、門の前に——」  とまどいながら、禽不理に告げてきた。籃《かご》の中に、魚が数尾と青物の束、それに穀物がわずかだがはいっていた。朝まだき、目にたたないように置かれていたのだという。 「いったい誰が」  と、禽不理は家人にたずねたが、心あたりのある者はひとりもいない。禽不理自身、まったくおぼえがないのだから、仕方がない。 「仕方がない。せっかくの心づくしだ。ありがたくいただこう」  分限者が気まぐれでほどこしたふしが、少しでも感じられていたら、禽不理も罠《わな》を警戒したかもしれない。だが、量からいっても籃の古さから見ても、懸命に集めてきたものだと推察できる。それを、無駄にはできなかった。  これが一度なら、禽不理も感謝はしても、それで忘れてしまっただろう。  数日後、ふたたび、青物の籃が門前に置かれていた。今度は、脯《ほじし》の束が申しわけなさそうに押しこまれていた。 「門前に注意するように。もしも、また持ってくる者がいれば、留めて内密に連れてくるよう。会って、理由を訊きたい」  家人に命じたが、それからも二、三度と、籃は知らないうちに届けられていた。 「夜が明けるころには、もう置かれてありましたもので」  ちなみに、城市の中は、夜間の往来は禁止されている。夜盗《やとう》などをとりしまるためで、その分、危険も多いのだ。  困り果てた彼らは、数人交替で寝ずの番をして、ある夜、ようやくひとりの男をつかまえてきた。 「なんだ、まだ、子供ではないか」  閉め切った部屋に呼び入れて、灯りの下で対面した禽不理の最初のことばである。  まだ、十四か五か。庶民の子らしく、真っ黒に日焼けし、汚れきった衣服をまといつけた身体は大柄だが、年齢は魚佩と大差あるまい。 「心配するな、とって食おうというのではない。ただ、礼をいいたいのと、理由を訊きたくてきてもらっただけだ」  少年が小刻みに震えているのを見て、禽不理はつとめておだやかな声を出した。とはいえ、戦場で鍛えられた声からは、重みがどうしてもとれなかったのだが。 「顔をあげよ。こわがらずともよい。いつも、うまいものを届けてくれて、感謝しているといっているのだ」 「では——」 「おお、全部、ありがたく食べている。あれは、そちが採ったものか」 「魚は——」  小さく、少年はうなずいた。 「他は、近所の連中が採ったり、頒《わ》けてくれたりしたもの……」 「そうか、それはその者たちにも礼を述べねばな。しかし、その者たちは、何故、この儂に食べ物を恵んでくれる。儂は、みすみす勝てる戦をせずに帰ってきたといって、陛下からお叱りをうけて閉じこもっている身だぞ。厚意はありがたいが、悪意のある者にみつかると、そちらまでが咎《とが》めを受けてしまう。理由を聞かせてくれぬか」 「将軍が——」 「ふむ?」 「将軍が、戦をなさらなかったから、みんな喜んでるんです」  少しは慣れてきたのだろうか。声を震わせながらも、少年はようやく、まともに口をきいた。 「儂が戦をしなかったから、とは。まだ、解せぬが?」 「おかげで、みんな、生きて帰れました」 「そちも——戦にいっていたのか」 「はい。親父のかわりに」 「それで、死なずにすんだというわけか」 「俺——〈琅〉に捕まってたんです」  少年が咄々《とつとつ》と語る事情は、こうだった。小競《こぜ》り合いの前に、水を汲みに行ったところで〈琅〉の騎兵に捕らえられ、そのまま捕虜となった。彼らに連れられ、庸関まで行ったが、そこで和議となり、〈征〉軍が撤退する時に帰された。 「あそこで〈琅〉が戦に負ければ、俺も殺されると思ってました。〈琅〉が勝ったら、ずっと西に連れて行かれて、二度と帰れないと思ってました。それが、思いもかけず和議になって、故国に生きて帰れました。春の植えつけには間に合いませんでしたが、それでも畑にもどって、そこそこの収穫をあげることができました。俺だけじゃないです。俺の知ってる人で、将軍のおかげで生きて、家族と会えた奴もいます、飢え死にせずにすんだ奴もいます。だから、将軍がお咎めを受けたと聞いて、みなで相談して——」 「そうか。いや、話はよくわかった」  禽不理は、深くため息をついた。 「だが、そうではないのだ。儂が和議を結んだのは、そちらのことを考えてではない。あそこで戦をしても、どうせ、儂は責任を問われて失脚させられた。負ければもちろんのこと、勝っても、王のご指示を仰がずに兵を動かした罪に問われたはずだ。ならば、少しでも物資に損害が出ぬように——そう思っただけなのだ。そちらを、武器や糧食と同様に考えていただけなのだ。感謝をしてもらうようなことではない。むしろ、恥ずかしいぐらいだ」  だが、少年は首を横にふって、 「それでも、大勢の命がたすかりました」  くりかえした。 「そちたちの気持ちは、ありがたく受け取っておこう。だが、以後は止めてもらいたい。せっかくの肉や魚だ、そちたちが食べるがよい。儂にはそんな値打ちはないし、夜にこんなことをしていて、そちたちの身に万が一のことがあっては、命を長らえた意味がなくなるではないか。何かしてほしいことがあれば、儂の方から頼むから、ここはひとつ、しばらくの間、おとなしくしていてくれぬか」  なかなか首をたてに振らない少年を、懸命に説き伏せて、蟄居が解けたら少年の邑《むら》まで礼に赴《おもむ》くと約束したころには、すっかり夜も明けていた。 「やれ、とんだことだった」  家人をつけて少年を送りだしたあと、ひと眠りした禽不理が、目を醒ました時、周囲は真っ暗だった。  閉め切った部屋は、昼も夜もなく暗いが、それでも外の気配でどちらかはわかる。昼は、陽気が立つとでもいうのだろうか。音は聞こえなくとも、空気がざわめきたつのが厚い板戸ごしにもわかるのだ。だが、どれほど気を澄ましても、外はしんと冷えきっている。 「しまった、寝過ごしたか」  あわてて飛び起きてから、苦笑した。  出仕しているわけではないのだ。昼間どころか、二日でも三日でも、眠っていても問題はない。  ただ、喉がかわいた。水注《みずさし》は常に室内に用意されているが、何も見えない。灯りを点けようにも、道具の場所がわからない。家人を呼べばいいのだが、時刻がわからない。あまり深夜だと、起こすのも気の毒だ。  嘆息した時、 「灯りなら、点けてさしあげましょうか」  突然、声が闇の中から湧いて出たのだ。聞いたことのない声だった。屋根の上から降ってくるようでもあり、床下から響いてくるようでもある。 「誰か」  禽不理は、落ち着いて誰何《すいか》した。 「さすがは、一国の相を務められるだけのことはある。たいした肝の太さですな」 「何者かと訊いておる」 「名は野狗《やく》と申しますが、ご存知ではないはず。世間では、夜盗などという者もいますがね」  男の低い声で、上品だとはいいがたいが、どことなく憎めない口調だと禽不理は思った。 「金目の物ならば、好きにもっていくがよい。ただ、家人には手を出すでない」 「いや、盗みに入ったんじゃないんで。ちと、お話があって参上したんですが——そちらへ行ってもよろしいですかね。灯りも、お点けいたしますぜ」 「夜盗が、顔を見られてもよいのか」 「まあ、よくはないですが。ここのところ、本業《ほんぎょう》はあがったりですし、まずい面だが、見せると見せないとでは話の風向きもずいぶんと違うものでして」 「ほう、なかなか道理をわきまえているのだな。では、灯りを点けてもらおうか」  意外にも、一丈ほど間をおいた真正面が、ぼうと明るくなった。最初、闇の中には男の顔だけがうかびあがったため、どことなく気味の悪い光景となったが、それでたじろぐ禽不理ではない。 「野狗といったな」 「へい」  見映えがよいとは、お世辞にもいえない。角張った、特徴的な顔の輪郭《りんかく》の中に、いかにも粗野《そや》な目鼻立ちがちらばっている。だが、声と同様、人好きのするなにかを持った気持ちのよい顔だと禽不理は思った。 「話とはなんだ」 「実は、おいらは夜盗が本業ですが、今は尤《ゆう》家の走り使いもしてまして」  ちら、と上目づかいで、禽不理の顔を見上げてくるところなど、なかなか抜け目がない。 「尤家なら、知っている。〈衛〉の耿無影《こうむえい》の財源は、尤家の上納《じょうのう》する金銭だということもな」 「あれは、国内外で商売をするための、いわば保証金でして。あのおかげで、尤家は〈衛〉の物資を他国に売ったり、他の国へ品物を買いつけにいったりできるわけです。たとえ、それが当面の敵国であろうと、ね」  通商の自由の代償として、高い金銭を払っているというわけだ。一見、利敵行為のようにも思えるが、現実は、たとえば〈衛〉一国だけで、戦に必要な物資がすべてまかなえるわけではない。  大量に、完成品が敵に渡りさえしなければ——たとえば、剣を〈征〉に渡すことは厳禁だが、鉄鉱石を一定量、売るのはかまわない。そのかわり、その時は高値をつけて売る。その金銭の一部が〈衛〉に納められ、必要な物資の買いいれに使われる。  下手に商売を禁止するより、統制した上である程度流通させた方が、不満も少なく、利益にもなる。それが、〈衛〉の耿無影の考え方であり、尤家の女主人、暁華《ぎょうか》の意見とも一致しているのだという。 「ところが、最近、事情がすこし変わりました」  商売は、相手があって成り立つもの。〈衛〉では認められている商売でも、他国も同様とはかぎらない。すでに壊滅してしまったが、北方諸国のうちの何国かは、物資の流出を嫌って、民間の取引まで制限したことがある。〈征〉も、魚支吾の時代には、ある程度の制限がついてはいたが、非常にゆるやかなものだった。 「それが、今の代になったとたんに、きつくなりましてね。商売の内容に、細かく干渉される上、他国者が物を買う時には、目の玉が飛び出るような税金がかかる。税金がもうけを上まわっちゃ、商売にはなりやせん。そうかと思うと、いらないものまで買わないと、欲しい物を売ってもらえないとか。まあ、〈征〉の人間になれば、税は軽くなりますがね。そのかわりに、他の負担がかかってくるという寸法でさ」 「何故、そんなことに——」  といいかけて、禽不理は声をひそめた。 「そうか、漆離伯要か」 「へい、あのお人がこの国を切り回すようになってからです」  魚佩は、魚支吾の長子でも嫡子《ちゃくし》でもない。それぞれ有力な縁者を持つ兄たちが事件を起こし処分されたために、嗣子の座がまわってきたのだ。早くに亡くなった生母は、古い家柄だが勢力はない。後ろだてのない魚佩が頼りにしたのが、学問の師でもあり、戦場からいち早く都へ連れ帰ってくれた漆離伯要だったのは、当然のことだった。  漆離伯要に、もとから反感を持っていた廷臣たちは多い。だが、正面きって彼に逆らうだけの意志と、必要性を持っている者がほとんどないのは、禽不理の処分をめぐっての朝議を見てもあきらかだ。彼らは、自分たちの利権が侵害されないかぎり、無理に伯要にたてつこうとはしないだろう。  もっとも、魚佩を自在に操れる立場になった伯要だが、それを私腹《しふく》を肥《こ》やすために使おうとしたわけではない。それなら、弾劾《だんがい》するのもたやすいが、彼は「〈征〉を富ませるため」に、その権力をふるいはじめた。 〈征〉はもともと、刑学といって、刑罰で人をとりしまる学問がさかんだった。漆離伯要が学んできたのは、礼学といい、礼儀作法を重んじる学問である。精神的なものを重視してはいるが、礼を踏み外したからといって、具体的に肉体に刑罰を与えるわけではない。一方、刑学は、盗みや殺人といった犯罪には厳しい実刑を下すが、礼儀作法や商売については無関心で、両者はかみあっていなかった。  漆離伯要が自分の学問として、新都の学問所で教えようとしたのは、礼学、刑学のどちらでもない。法によって国を治めるという点では刑学に近いが、その法の適用を犯罪のみならず、商売や公の礼法にも広げようというものだった。 「王宮の門の出入りや、衣服にまで細かな規定を作り、違反した者には、容赦なく罰を当てるとか」 「商売にも、法とやらの網をかけておいでで。なに、むろん、詐欺だの秤《はかり》のごまかしだのが、いけないのは当り前でさ。だが、一人の商人が、どれだけ以上、儲けちゃいけないとか、あれを扱うならこれも買わにゃならんとか、大きなお世話だ。おかげで、尤家はおおいに迷惑してますんで。いや、これは長い目で見れば〈征〉のためにも、ならんのじゃないかと思います。そうして〈征〉の国庫にはいった儲けは、〈琅〉を攻めるために使うんだそうで。ですが、おいらの見るところ、戦続きで、〈征〉の民は疲れ果ててますぜ。ここ、数年、天気も順調で、豊作続きだからなんとかなってますがね。一度、日照りか大水になったら、ひとたまりもない」 「それは、儂もわかっている」  前日の、少年の顔が目に浮かんだ。 「それに、〈琅〉なんぞ攻めて、どうします。〈琅〉が滅んだら、今度は〈衛〉がここに攻めこんでくる」 「——そなた、ほんとうに夜盗か?」  禽不理がぎくりとして訊ねると、野狗はくしゃりと顔をゆがめて苦笑いした。 「いや、これは全部、尤家の夫人の頭から出たことで」 「尤夫人——婦人がここまでのことを考えるのか」 「そりゃあ、あの夫人は特別出来で。ここだけの話、あの〈琅〉の赫羅旋を居候させ、耿淑夜をかくまって恩を売っておいたぐらい、先を見る目のあるお方でさ」 「ふむ——つまり、尤夫人は〈琅〉とも強い繋がりがあるということだな」 「そういや、そうですが」  と、何故か、野狗は声を小さくたてて笑った。 「どちらかといや、尤夫人の方が赫羅旋の首ったまを押さえてるようなもので。ただ、尤夫人は〈琅〉を助けたいわけじゃないんで。この先、うまく商売を続けるにはどうしたらいいのか——世の中が治まって、楽に商売をするにはどうしたらいいか、それをまず考えておいでなだけなんでさ」 「しかし、戦があれば、それだけ商人ももうかるわけだろう」 「そりゃあ、一度か二度なら、そうですけれどね。こう頻繁で、庶民が食うや食わずとなっちゃ、売れるものも売れないし、だいいち商品が確実に運べませんや」 「そなたも、それで本業どころではないというわけか」 「へへ、まあ、そういうことで」  野狗は、照れたように笑った。 「ま、当面のところは、〈征〉のこの状態をなんとかしたいと、尤夫人は考えておいでです。漆離伯要たらいうお人が失脚すれば、そして将軍が宰相として復帰すれば、民のことを考えてくださる将軍のことだ、税の方もなんとかしてくださるんじゃないかと、お考えでね。——今すぐとは、いいませんや。相手は上り調子で、若い王さまの絶対の信用をものにしてるってことも、わかってます。でも、時間がたてば襤褸《ぼろ》も出る。無理をすれば、かならず歪《ゆが》みが出てくるもんだ。そこで、その時に将軍に使っていただきたいものがあるという寸法で」 「なんでもよいが、そなた、よくしゃべるな。それで、夜盗を働けるのか」 「へへ、自慢じゃないが、人なみはずれて足が速いもので、なんとかつとまってまさ」  といいながら、野狗はふところから布の包みをとりだした。拳大の丸いそれは、布を払うと蝋《ろう》の塊になった。それをごろりと床にころがして、 「中には、漆離伯要が〈衛〉の耿無影に出した書簡がはいってます」 「——なんと!」 「ま、国を売ったのなんのってほどの話じゃないですがね。ただ、他国の王に私信を送るのは、あまりうまい手じゃない。それも、人に知られないようにやるのは、ね」  野狗の角張った顔の中で、両眼だけがきらきらとおもしろそうに光っていた。 「中をごらんになりたいなら、どうぞ。ただし、これは尤夫人も命がけで手に入れたものだ。一度、開けたなら、それを使って漆離伯要を確実に失脚させてくださらなけりゃ、困ります」  ただし、それに失敗した場合、責任をとるのは尤夫人ではなく、禽不理本人となるだろう。 「だが、この中身がそれだけの威力を持っていると、だれが保証する」 「たいしたものじゃないと、最初からいってますぜ。ただ、時と場合によっては、ものすごい武器になる。品物に高い時と安い時があるようなものでね。今は、そいつが一番安い時でさ。文字通り、紙きれ一枚だが、時が来れば万金よりも高くなる」 「——儂に商人になれと?」 「戦も、考えようによっては商売でさ。元手をかけて戦をする。勝ったら、占領した城市だとか土地だとかがもうけになるという寸法で。他人の命を元手に注ぎこむ、効率の悪い、非道な商売ですがね」 「わかったわかった」  禽不理は、そういって蝋の球を手にとるより他なかった。たかが夜盗というが、この男の舌鋒の鋭さは、下手な説家《ぜいか》も顔負けではないか。 「要は、戦を回避しろということだな」 「〈征〉のため、〈征〉の民のためを第一に考えてくださるよう」  声音を改めた禽不理に、野狗は即座に反応した。彼も声を落として、ぴたりとその場で平伏した。その頭の上を、 「いっておくが、儂には漆離伯要や耿無影のような鋭敏さはないし、赫羅旋のような戦上手でもない。人智は尽くすが、失敗することがあっても恨んでくれるなよ」  疲れたような、だが、どこか奇妙に明るい声が通りすぎた。      (三)  門まで迎えに出た淑夜の前で、車から降り立った少女は、 「義京は、七年ぶりです」  嘆息とともにつぶやいた。いや、焼け落ちる王宮・七星宮《しちせいきゅう》を後にした時は、十六歳の少女だったが、七年の歳月は彼女を一人前の女に変えている。  一般の婚期はとっくの昔に過ぎているが、彼女も周囲も、それを気にとめる風はない。ひとつには、すでに、彼女は物心もつかない嬰児の頃に一度、政略のため、人質《ひとじち》同然に嫁がされていたからだ。  未亡人の再嫁は、禁じられているわけではない。むしろ、土地を耕《たがや》すにしても戦をするにしても人口が必要な時代、再婚は男女ともに奨励されていた。が、〈琅〉王の姪ともなると、立場は微妙だ。〈琅〉王・藺如白《りんじょはく》には実子がなく、彼女の婿が王太子になれるかもしれないのだから、うかつな者と結婚するわけにはいかないのだ。  もっとも、彼女の伯父は、この姪を二度と政略の種に使う気はない。 「揺珠《ようしゅ》はすでに、国主の一族の役目を果たした。後は、自分のために生きても、責める者はいない」  とはいえ、庶民の女とはちがい、人前に出ることは少ない。如白には妃がおらず、館の奥向きのことは一番親しい血縁の彼女がとりしきらざるを得ず、外へ出、人と会う機会はさらに少ない。  ただ、義京にいる時は、微風にも倒れてしまいそうな病弱だった彼女だが、故国〈琅〉へもどった後、みるみる健康を取りもどした。気候が合っていたためか、それとも、修羅場《しゅらば》をくぐりぬけた体験が彼女を強くしたのか——おそらく、その両方だろう。ともかく、玉公主・藺揺珠の白い花のような美貌は、今がさかりの美しさだった。  義京は、七年前の乱のおり、王宮を中心とした火事に見舞われている。焼けた範囲はさほど広くないが、その前後の混乱で壊された建物も多い。乱後、都を逃れて他国に移り住んだ者も少なくなく、あるじを失った家がわずかの間に朽ちて崩れた跡もよく見かけた。  それでも、七年の間には逆にもどってきた者もある。都に残留していた者もあり、家を修復したりささやかに新築したり、城壁内に住人の声が常に響くようにはなっていた。  城壁の一部は、乱の時、〈奎〉軍——つまり、大牙が指揮する兵に壊されているのだが、それでも壁も土塁もない見知らぬ土地に住むよりは、ましだと思う者が多かったのだ。  その家なみを、ここまでの道中、車の窓から見ていたはずだ。 「ずいぶんと、変わりました。いえ、わたくしが後にした時は、もっと無残な姿だったのに。でも、あの乱の痕跡ひとつ残っていないのも、なにやら悲しい気がします」 「無くなったわけではありませんが」  淑夜は、揺珠の嘆息を救うように告げた。 「あまり、見て楽しむようなものではありませんから。ことにここは——七星宮は見る影もありませんよ」 「そんなにひどいのですか?」  望楼を上に重ねた王宮の城門は、今はぴったりと閉じられている。王宮の周囲の城壁だけは、まだしっかりとしているために、よそ目には時の変化をうけなかったかのようにさえ見える。  もっとも、七星宮がどんな被害をうけたか、揺珠も知っているはずだった。それだけに彼女は、その「変化」にすこしたじろいだのだろう。  淑夜は、それを微妙に感じとって、おだやかに笑った。 「いえ、何もないんですよ。焼け残ったものは、住民が持ち去ってしまったようで、礎石《そせき》だの石畳《いしだたみ》だのしか——。でなければ、ご案内しませんよ」 「忙しいのに、申し訳ありません」  淑夜は現在のところ、義京を統括する責任者ということになっている。  わずかな住民相手の行政と、城壁や主要な建物の修復、建設の業務、それに義京に駐留している兵の教練と、ひとりでいくつもの仕事をこなしている。さすがに、軍の実務は徐夫余に任せているが、眠る時間をけずっての激務であることは、揺珠も聞いていた。  ちなみに、赫羅旋は巨鹿関の改修のために、現地と義京の間を忙しく往復している。段大牙は、父と兄の遺骨を持って青城へもどっている。揺珠とともに安邑を発った苳児《とうじ》が、百花谷関を入ったところで揺珠の一行とわかれ先を急いだのは、その葬儀に間に合わせるためだ。茱萸《しゅゆ》も苳児についていったので、揺珠は百花谷関からこちらの道程を、わずかな侍女を従えただけでやってきた。  むろん、その間の安全は、羅旋が兵をさいて確保している。 「かまいません。かえって、いい息抜きですから」 「もうすこし、義京が復興していれば、お仕事も楽でしたのにね」 「羅旋どのが直接、ここを治められれば、義京にはさらに人がもどりましょうぞ」  城門の脇の小門のむこうがわから、老人がひとり、ひょいと顔を出して声をかけた。髷《まげ》にした白髪が薄く、小柄で一見気むずかしそうだが、人品は悪くない。 「〈琅〉の| 政 《まつりごと》は、おおむね寛大で税も安いと評判になりつつありますぞ。商売がしやすければ、商人も集まり、品物が集まり、それに伴って人が集まります。義京が、往時のにぎわいをとりもどすのも、夢ではないかもしれませぬ」 「季《き》老——それは違うと思います」  老人の顔を見て、淑夜が笑った。 「われわれに人を引き寄せる力はありませんよ。尤家が義京へもどってくだされば、蟻《あり》のように群らがってくるかもしれませんが」 「相互作用かもしれませぬな。ですが、まだまだ、夫人は〈衛〉を動かれませぬよ。〈衛〉の方でも、なかなか手離されませんようで。ですが、義京にはもう一度、尤家の店を置くことになりましょう。北の方は、交通の便はともかく、遠すぎましたから」  この季老人は尤家の差配《さはい》として、先代から仕えていた男である。現在も、尤家の女主人・暁華の片腕として商売をとりしきっているが、義京が陥落し、尤家が〈衛〉に本拠を移したあと、彼だけは北の〈乾〉に移り住んだ。北方諸国の動きが活発化するのを見越し、暁華が北へ物資を売りやすくするためである。  尤家の——もしくは尤暁華の利口な点は、政からは一歩、引いたところで商売をしていたところだ。北方諸国が崩壊しても季老人が無事だったのは、彼が〈乾〉や〈容〉の国主たちとの距離を置き、時には彼らに不利な動きも裏で行っていたからだ。  具体的にいえば、〈容〉国主とことを構えた淑夜の頼みを聞きいれ、大牙の身の保全をはかり、大牙の姪の苳児の身をかくまったことだ。どちらも、一歩まちがえば、商売ができなくなるならまだよい方、というあぶない橋だったが、暁華が信頼するこの老人は、顔色ひとつ変えずやりとげてみせた。  結果、北方諸国は〈琅〉の支配下にはいったが、〈琅〉の人間となった淑夜の口ききで、尤家の財産は保全され、こうして国内を堂々と歩けるようにさえなった。  それだけではない。  いくら義京に、他に王族が住めるような館が他にないからといって、建て直した尤家の屋敷に揺珠を迎えるなど、破格のことといってよい。 「敵味方、どちらにも等分に恩を売る——というと、露骨ですが」  と、季老人が淑夜にいったことがある。 「生き延びることを第一に考えるなら、そういうものです。いや、戦にも政にも、おなじことがいえるかもしれませぬ。適当に兵の逃げ道を作っておけば、敵は逃げていく。退路を断ってしまうと、相手は死にものぐるいになります。敵は全滅しますが、味方にも大きな損害がでます。〈琅〉が捕虜を決して殺さず、時と場合によってそのまま解放してやるのも、また理にかなっておりますな。〈琅〉と戦う兵は、上官の制裁《せいさい》を逃れられるものなら、すすんで降伏した方が生き延びられるわけですから」  実際には、それほど物事は単純ではないが、それでも淑夜には学ぶことが多かった。  王宮の城門が、きしみながらゆっくりと開きはじめた。  季老人は、内部の警備に充てられている兵たちに、開門の指示を伝えにいっていたのだ。 「——ここも、商売には不便ではありませんか」  厚い城門の中央にあらわれる空間を見ながら、淑夜が不意に訊ねた。同様に以前の会話が頭の中にあったらしい季老人は、おどろかなかったが、揺珠が黒目がちの瞳を大きくみはった。 「義京は、地形的にはたしかに、攻めにくく守りやすいところです。百花谷関と巨鹿関を押さえてしまえば、大軍は山を越えることはできない。でも、同時に物資を大量に運びいれることもできない」 「たしかに、それが欠点といえば欠点でしたが」  季老人がうなずくかたわらで、 「では、義京をふたたび都にしてもしかたないのでしょうか」  突然、揺珠が口を開いた。  驚いたのは、季老人より淑夜の方。淑やかな玉公主が、こういった政治向きの話題にのってきたこともあるし、 「都——ですか。〈琅〉の国都を、移すと? それは、陛下のお考えですか。私は聞いていませんが」 「まだ、どなたにもお話ししていないはずです。伯父上——いえ、陛下も、まだ漠然と考えておいでのだけ。わたくしも、ちらりと耳にしただけです。でも、安邑があまりに中原の西端すぎるのは、事実です」  たしかに、軍を動かすにしても、いちいち安邑から発していたのでは、距離がありすぎる。  実は、揺珠が安邑を発ったあと、如白も軍をひきいて百花谷関の手前まで出てくる手はずになっていた。〈征〉との仕切り直しは避けられないと見て、本営を進めたのだ。百花谷関ならば、旧〈容〉領から攻める場合も、義京を経て巨鹿関から出るにしても、ほぼ、おなじ日程で動けるわけだ。おそらく、〈容〉との国境が主戦場になるだろうと予想はしているが、まだ確定したわけではないから、万全を期すつもりなのだ。  どちらにしても、国境が東に大きく移動した今、都もまた、東へ移動させるのが順当ではあるのだが。 「新たに都を建設するだけの力は、〈琅〉にはとてもありませんから、移すとしたら、北の〈乾〉か〈貂《ちょう》〉の国都か、義京を修復するしかありません。〈乾〉はまた、北にありすぎますし」 「義京は、かつての〈魁〉の国土の、ほぼ中央に位置していますからね。たしかに距離的には便利です」  だが——と、淑夜は頭をふった。  国を発展させるなら、交通の便をよくし、人の行き交い——ことに商人の往来をさかんにする方がいい。もちろん、そうするためには、街道の安全が確保されなければならない。それにはまず、戦がなくならなければ——つまり、ふたたびこの中原が統一されるのが大前提だが。 「淑夜どのは、何か他の場所に心あたりがあるようだ」  と、季老人がふくみ笑いをした。 「いかがです。揺珠さまにお話ししておけば、いずれ、陛下のお耳にも入りましょう」 「ご老人、わたくしは、政に口をはさみはいたしません。何の力もありませんのに」  揺珠は謙遜《けんそん》したが、淑夜は笑いながら首をふった。 「献策《けんさく》というほどの、大仰《おおぎょう》なものではないんですよ。私の夢想にすぎないんですから。ただ——」 「ただ?」 「長泉《ちょうせん》の野なら、南北をつなぐ交通の要所だし、土地も平らで開けていると思っているだけです。守るのは少し難しいですが。巨鹿関をよく整備しておけば、いざという時、義京へ逃げこめばいい。西から来る敵は、巨鹿関で止めればいいわけですし」  揺珠は、目をみはった。 「長泉の野? でも、あそこにはすでに」 「〈征〉が新都を築いています。だから、夢想だといったんですよ。あの城市がそっくり、こちらの手に入るならともかく——そんなうまい話が、あるわけがない」  淑夜は苦笑いをして、 「話している間に、城門が開きましたよ。さ、どうなさいます。車を召されますか。それとも、歩いてごらんになりますか」  その話を打ち切った。 「ここで——」  揺珠が足を止めたのは、|天※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]楼《てんきろう》の前の石畳だった。 「士羽さまが倒れたのは、ここでしたね」  うつむいた彼女の表情は読みとれなかったが、視線が石畳の染《し》みを見ていることはまちがいなかった。  淑夜にとっても、胸の痛む光景だった。  七年前、義京の乱の時、大牙の兄・段士羽は、ここで揺珠をかばい、太宰子懐の凶刃《きょうじん》に倒れたのだ。太宰子懐はほぼ正気を失っていたから、不慮の事故死といってよい。 「士羽さまが生きていたら、今の情勢をどうおっしゃったでしょうね」 「士羽さまが生きておられたら、今ごろ、まだ羅旋が苦戦していたでしょうよ」 「そんなことをおっしゃってよろしいの?」 「羅旋本人が、そういってるんですよ」  淑夜は苦笑した。 「それにしても——こんな時には、月並みなことばしか出てこないものですのね。さまざまなことがありましたね、としか」  淑夜は、すぐには応えなかった。彼は胸の内で、乱以降に没した敵味方の名を数えていたのだ。  ——衷王陛下、士羽さま、〈奎〉の老伯、太宰子懐、〈容〉伯・夏子明《かしめい》、夏子華《かしか》どの、それに先の〈琅〉公・藺孟琥《りんもうこ》どの。  藺孟琥は、揺珠の兄にあたる。淑夜は直接知らないが、孟琥の死後、〈琅〉公位を如白と争った兄弟たちも、死者の列にはいるのだろうか。  ——それから、魚支吾。  魚支吾とは、一度だけ、直接に会ったことがある。あれは、寿夢宮でだったか。耿無影を襲った淑夜を、刺客《しかく》として——無影との取引に使うために、〈征〉に仕えよと手をのばしてきたのだ。 (あの時、あの手をとっていたら、どうなっていただろう)  魚支吾は、大国〈征〉の主として、当時から〈魁〉王を凌《しの》ぐ実権を握っていた。無影に追われる身として、〈征〉の保護はなにより確かなものに思えたし、魚支吾は主君として仰ぐのには理想的に見えたものだ。申し分のない知力と覇気にめぐまれ、充実の年代にはいった男の、圧倒的な魅力と迫力に、淑夜は自分が押しつぶされそうな気がした。いや、今でも思いだして、背筋にぞっとしたものを感じることがある。  おそらく、それが〈征〉への仕官を拒否する要因になったのだろうと、彼は漠然と思っていた。自分がいかに卑小で未熟な存在か、思い知らされた。魚支吾の下で働くかぎり、永遠にそう感じつづけるだろう。  淑夜が命を長らえる意味を確信するためには、魚支吾の下にいてはだめだと、あの時、直感がささやいた。おのれ自身の手で何かを成してこそ、この世に存在する意味があるのだと。たとえ、それがどれほど卑小なことであろうと。  そして、結局、その判断は正しかった。  彼の臣として、彼の覇業に手を貸していたら、今ごろは〈琅〉まで攻めこんでいただろうか。 (いや、天がその時間を貸さなかっただろう。どちらにしても、魚支吾は〈征〉と〈琅〉の間のどこかで死んだにちがいない)  その時、自分がどこにいるか、今の淑夜には想像ができなかった。おそらく、よくて〈衛〉とのかけ引きに利用されてさっさとお払い箱になっていた程度だろう。  淑夜はかるく首をふった。  まだ、死者をふりかえるのは早過ぎる。まだ、何も片付いていない。  何もかもこれから——ようやく、出発点へもどってきたばかりだ。なにより、目の前に予想される戦に勝ちぬかなければ、淑夜も羅旋もまた、その死者の列にはいるのだ。 「長居は身体に毒ですよ。長旅で、お疲れなのですから。これから、儀式も重なります。昔の尤家の屋敷に手を入れて、宿舎を用意しましたから、そちらでお休みください。季老、よろしくおねがいします」  長いあいだ、ただ、ぼうぜんとたたずんでいる揺珠に、淑夜はしずかに声をかけた。泣いてでもいるのだろうかと心配した目には、少なくとも涙の痕はなかった。  淑夜の声におとなしくうなずいて、揺珠は再び車上の人となった。  騅《あしげ》の馬に乗って従った淑夜は、途中であいさつなしに道を逸れた。離宮だった寿夢宮を改修する件で、今日は城外へ出て泊まるのだと、前もって話してあった。  その後ろ姿を見ながら、 「——新都とは」  季老人がつぶやいたことまでは、淑夜は知らなかった。  漆離伯要が焦っていることを、この時点で見抜いていた者は、どれだけいただろう。  奇妙なことに、蟄居中の禽不理も含めて、〈征〉の人間はほとんど、伯要が得意の絶頂にあると思っていた。実際、彼がそう思わせていたのだ。  新王・魚佩は彼の学問上の弟子にもあたり、〈容〉から無事に連れ帰ってくれた宰相には、恩と敬意は感じていても、批判をするはずがない。まして、抵抗などするはずがない。  彼は、先代・魚支吾が、 「〈容〉にもどって、佩のそばについておれ」  といったことばを拡大解釈し、魚佩の身を委託されたと人に思わせていたが、その実、はっきりと命じられたわけではなく、文書にしたものもなかった。なんの権限で摂政の役割をつとめているのかと問われれば、伯要には答えようがなかったはずだ。  もっとも、伯要にもいい分がある。 「摂政となったといったおぼえは、一度もない」  詭弁《きべん》だが、一面、これは正しい。また、 「他にこの国難の時にあたって、責任をとろうという人間がいるのか」  という自負も、伯要の支えだった。魚支吾の死を伝えられて、うろたえなかった者はほとんどいない。伯要のもとへ、これからどうするかと訊ねに来た者が、いかに多かったか。〈容〉に在った時も、魚佩を擁《よう》して帰国した後も、伯要はその種の訪問者を、一日に何人もさばかなければならなかった。  伯要が、その座をうばったわけではない。伯要を推した——というより、伯要に頼りきった人間が、それだけ多かったのだ。魚支吾の死後、おのれの判断で動き、方針を立て、きちんと身を処したのは禽不理ひとりだった。そういう意味でも禽不理は、どうしても国政からは遠ざけておきたい人物だったのだ。 「さいわい、禽不理は壮年——一度、失脚すれば、返り咲く機会が来たとしても、その時には老齢となっていよう。今のうちに、若い者で国政をかためておけば、老人の出る幕はなくなっているだろう」  人間の寿命は、五十歳前後といわれている。魚支吾も、五十歳前に没した。禽不理は魚支吾より年少だが、伯要に比べれば若いとはとてもいえない。  伯要の手腕がたしかなら、禽不理をはじめとする身体も頭も古い連中は、必要ない。万が一、伯要が失敗することがあるとしても、それまでには十年はたっぷりあると、彼は信じていた。  もっとも、慢心もしてはいない——いないつもりだった。 「〈征〉はたしかに豊かな国だ。だが、ここ数年、戦続きで国庫にゆとりがなくなっているのも事実だ。民の暮らしにも、余裕がなくなっている」  ここまでの認識は正しい。商業をさかんにするのが、国を富ます手段だということも、十分に承知している。だが、 「だから、野放しにしておいてはいけないのだ。一部の商人が、不当にもうけ過ぎるのはよくないし、全体をしっかりと統制しておく必要がある」  空になりかけている国庫を回復させるのには、流通をさかんにして税をかけるのがもっとも手っとり早い。そのためには、何をどれだけ売ったか買ったか、政を執《と》る者が克明に知っておく必要がある、場合によっては、その量を自分たちの手で加減する必要があると、伯要は思っていた。  緊急に食料を他国から買いいれる必要があったことも、この統制の理由だった。  他国といっても、すでに国とよべるのは、〈琅〉と〈衛〉しかない。〈琅〉は、当面の敵国というだけではない。飢えてこそいないものの、食料を他国へ売るほど豊かだったことは一度もないから、この際は論外である。〈征〉の取引相手は〈衛〉だけだった。  もともと気候が温暖な上、ここ数年、戦乱を経験していない〈衛〉には、余るほどの食料があった。それを〈征〉に売ってくれるのはありがたいのだが、当然、安くはしてくれない。 「足もとにつけこみやがって」  と、羅旋ならいうような高値を、〈衛〉から来る商人たちがつけてくる。それでも、食料は必要だから、民は争うように買い急ぐ。結果、〈征〉の財が〈衛〉へ際限なく流出しはじめたのだ。  たしかに、金銀をはじめとする金属や宝石など、食べられはしない。だからといって、銅や鉄まで米に代えてしまっては、武器や建築の材料に困ることになる。  それを防ぐために、伯要は国として買い入れる総量を設定したのだった。一定以上売りこもうとする商人からは、高い税をとる。その税で食料を買うなり、金属を買いもどすなりするのだ。苦し紛れだが、悪い策ではないと、伯要は考えていた。  高い税をとられた商人が、その分を上のせして〈征〉の民たちに品物を売ることなど、彼の頭の中にはなかった。  伯要のもうひとつの懸案は、〈琅〉だった。禽不理の努力で和議は成立したが、これは早々に破られる——破る必要がある。先王の成し遂げられなかった偉業を、完遂してみせれば、後継者の資格は十分となる。逆に、一日も早く、それを証明してみせなければ、いずれ、漆離伯要に不満を持つ者、または彼の座をほしがる者があらわれる。そうなってからでは遅いのだ——このあたりは、淑夜が見ぬいたとおりである。  当然、戦の準備もおこたりなく進めていた。 〈征〉と〈琅〉との接点は、半年前にくらべて増えている。〈容〉の西の境と、巨鹿関の二か処だが、伯要は巨鹿関の方は重視しなかった。なにしろ、巨鹿関から大軍を出してくるのはむずかしい。巨鹿関にはいったのがあの赫羅旋であることも、彼の騎馬兵のおそろしさも十分に知っている伯要だが、 「そのために、新都を作ったのだ」  新都を無視しては、どんな軍も動けない。騎馬兵だろうが戦車だろうが、巨鹿関から出ようとすれば、新都の軍が出口をふさいでしまう。どんな奇襲をかけてこられようと、けっして無傷では谷は出られないのだ。戦の前に被害を出しては、戦にならない。それは、羅旋の騎馬兵でもおなじことだ。  むしろ伯要は、巨鹿関にはいったのが赫羅旋であることをよろこんでいた。 「平地での戦なら、あの騎馬兵の速さは脅威になる。だが、奴らは攻城戦は苦手だ。兵糧攻めしか知らないようだが、義京や青城はともかく、新都へ糧食を運びこむ手段は、いくらでもある」  援軍も、四方から呼ぶことができる。そうなれば、羅旋たちに勝ち目はない。 「戦をするなら、〈容〉との境だ。こちらの方が数が多いなら、大軍を動かせる開けた土地の方がいい」  この点、伯要の腹は最初から決まっていたのだ。ただし——。 「戦をせずに勝つ方法は、ないものか」  伯要は、真剣に考えていた。 「〈琅〉が軍を帰さざるを得ない状況——そう、半年前の我らのように。今度は、和議など結ばなければいい。追撃をかけて、安邑をうばってしまえば、奴らは、戎族の中へ逃げこんでしまうだろう。北と西を完全に制覇してしまえば、〈衛〉など、問題ではない」  あの、高慢な耿無影が、絶対的な〈征〉の国力の前に、歯がみして悔しがる図を見るのも、夢ではない。 「その時には、私をみくびったことを後悔させてやる」 〈衛〉に仕えたかったわけではない。たとえ招聘《しょうへい》されても、行く気はなかった。〈征〉の方が、彼にとっては動かしやすい国だったし、主君としても魚支吾の方があつかいやすかった。ただ、知恵者といわれる耿無影に認められ、わが国へ来てくれたらといわせたかっただけなのだ。  つまらない自己満足だということは、十分自覚していた。それで大局をあやまるほど、彼も甘くはない。ただ、計画の進め方がわずかに早くなったことは、たしかだった。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》をよべ」  彼は部下にそう命じた。 「あの、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器どのですか」  部下がかすかにいやそうな顔をしたのは、名指しされた男に好感情をもっていない証拠だった。 「そうだ、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器だ。〈琅〉へ潜入させる。こんな時のために、今まであやつを飼ってやっていたのだからな」 [#改ページ]  第二章————————暗闇      (一)  彼は、自分が嫌われていることを十分承知していた。どこへいっても嫌われる運命にあると自覚はしていたが、それがなぜなのかは考えたこともなかった。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》という男である。 〈衛《えい》〉王・耿無影《こうむえい》の寵姫《ちょうき》・|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》の叔父だった彼は、美貌《びぼう》の姪を権力者に売って利益を得ようと画策《かくさく》し、一時は〈衛〉の一方の将軍にまで任じられた。  が、分不相応《ぶんふそうおう》な権力は、結局、身を滅ぼすもとにしかならないものだ。〈衛〉と〈奎《けい》〉がぶつかった長泉《ちょうせん》の野の戦の失敗の責任を、無影から問われ、彼は〈衛〉から逃亡するしかなかった。  義京《ぎきょう》の乱のおり、よりによって敗走する〈奎〉軍の前に現れ、そのまま大牙《たいが》の軍にまぎれて〈容《よう》〉まで行を共にする。策略が下手なくせに陰謀家ぶる彼は、そこで〈容〉国主・夏子明《かしめい》にとりいって、大牙から玉璽《ぎょくじ》をとりあげ抹殺《まっさつ》しようと画策し、ふたたび大牙と淑夜《しゅくや》に裏をかかれて逃げ出した。 「逃げ足だけは、みごとなんだがな」  と、一件がおさまったあと、一応、行方を捜させた段大牙が、苦笑まじりにもらしたほど、彼の逃げ方は徹底していた。淑夜がどう捜しても、西へ行ったか東へ走ったか、足どりがつかめなかったのだ。 「国内にはいないだろう。といって、〈衛〉へはもどれないだろうし」 「〈琅《ろう》〉はどうでしょう」 「利器の方で、願い下げだろう。羅旋《らせん》が小人の取り入りを許さないと思ったから、俺の方へついてきたわけだし」 「とすれば、〈征〉ですか」 「だろうな。なら、心配することはない」 「どうして、断言できます?」 「魚支吾《ぎょしご》にも、阿諛追従《あゆついしょう》は効かないだろうからさ。実力のない、大言壮語だけの男を、奴が重用するのを見たことがない。その点だけは、魚支吾という男、信用してもいいと思うぞ。権力の周辺にさえあらわれなければ、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が生きていても、害になることはないだろう」  現実に〈征〉の朝廷を見ても、古くからの家柄重視の部分はあるが、役にたたない者はそれなりに名誉職にまつりあげ、漆離伯要《しつりはくよう》のような人材も登用している。淑夜自身、媚びないところも見こまれて、仕えるように迫られたことがある。なるほどと淑夜は納得し、それで追及を打ち切ったのだ。  実際、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の名は長い間、人の口にのぼらなかった。  だが、ふたりとも、魚支吾の臣下にまでは思いが及ばなかった。また、ただ使い捨てにできる道具として人を飼っておくという発想も、持っていなかった。漆離伯要の身辺など、くわしく探らせている時間も余裕も手段もなかったこともある。  実は、一度は魚支吾の指示で、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、〈衛〉への工作に利用されている。だが当時、淑夜たちは〈琅〉との戦で手いっぱいだったし、〈衛〉国内の攪乱《かくらん》も不成功に終わった。  魚支吾も用無しとして切り捨て、忘れたものをひそかにひきとったのが漆離伯要だった。  ここ数年、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、〈征〉の臨城内の漆離伯要の屋敷内でじっと身をひそめてきたのだ。  屋敷の外へ出ることはめったに許されず、外出する時はかならず、伯要の家人だか弟子だかがぴったりと付いてきた。だからといって、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が伯要に従順だったかといえば、そうではない。  居候《いそうろう》の身のくせに、 「儂《わし》は、おまえらの主の賓客《ひんきゃく》だぞ。丁重に扱うのが当然ではないか」  食事に注文をつけたり歌舞音曲《かぶおんぎょく》にふけったり、屋敷の者をあごで使ったり、およそ嫌われないのが不思議なぐらいの奢侈《しゃし》と驕慢《きょうまん》にふけっていたのだ。  永遠に何もせずにいられるとは、思っていなかったかもしれないが、漆離伯要が出世をしたら、政治向きの顧問ぐらいに登用されるのだろう、程度の認識しかなかった。仮にも〈衛〉王の夫人の叔父を、使い走りにするとは思ってもいなかった。  だから、突然、 「〈琅〉へいっていただきたい」  伯要に呼ばれて告げられて、ひっくりかえるほどおどろいた。しかも、 「秘密裏《ひみつり》に、です。早急に発っていただきたい。明日にでも」  追いたてるように、付け加えられた。 「ま、待っていただきたい。使者となれば、それなりの威儀も必要、準備には時間がかかる。明日になど、とても無理——」  抗議すると、 「誰が、正式の使者だと申しました」  伯要は、冷たい視線で見下した。 「威儀だの支度だのは不要、書簡も、発見された場合、困るので渡しません。ここで口頭で申しあげることを、しっかりと覚えて行かれよ」 「——そ、そんな。道中、万が一のことがあったらどうする」 「心配ない。供《とも》はつけてさしあげよう。ただし、身をやつしていくのだから、数人で十分です」  それが、途中で逃亡しないための見張りだというのは、明白だ。もっとも、ここで逃げたとしても、もう|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器には行くところがない。 「しかし、その、儂は最近、身体の具合が思わしくなく——」 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器どのともあろう方がまさかとは思うが、使者の役目が勤まらないとおっしゃるのではなかろうな」  伯要は嫌味を微妙な線で押さえてみせた。聞きようによっては、本気で|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器を才能ある人材と信じ、ここぞという時に投入しようとしているようにも受け取れるいい方だ。  もちろん、そんなはずはないのだが、さんざん自分の能力や手腕を吹聴《ふいちょう》してきた|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器としては、引き下がれない状況となった。おまけに、彼は自惚《うぬぼ》れが人いちばい強い。  結局、最後には、 「そうかそうか、やはり、儂が出ていかねば片付かぬのですな」  なかば虚勢《きょせい》、なかば本気でそんな台詞を吐《は》いて、のこのこと出かけることとなった。  ことばどおり、伯要は屈強《くっきょう》の供をつけてくれた。玉を買いつけにいく商人にみせかけるため、体躯《たいく》はさほどでもないが、目つきは鋭い連中ばかりである。特に|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器に冷たくあたったわけではないが、旅の間中、必要以上の口をきこうとしなかったのは、なんとも不気味だった。 〈琅〉で会うように指定されたのは、王・藺如白《りんじょはく》ではなかった。 「藺季子《りんきし》という名は、ご存知だろうな」  藺厦《りんか》、通称を季子といって、如白より年下だが一族の叔父にあたるという人物である。〈琅〉は近年、有力な将軍たちを相とし、彼らとの合議制で万事を決めるようにしている。武人の羊角《ようかく》、廉亜武《れんあぶ》、方子蘇《ほうしそ》、赫羅旋の四人に、文の人間として加えられたのが、藺季子だった。年齢は、ちょうど廉亜武と方子蘇の中間にあたる。  廉亜武が巨鹿関《ころくかん》にはいり、赫羅旋も義京にある。羊角と方子蘇が〈容〉との国境の曲邑《きょくゆう》付近に駐屯し、また如白も百花谷関《ひゃっかこくかん》まで出ていった。  藺季子が〈琅〉の国都・安邑《あんゆう》の留守を預かることになったのは、自然な成り行きだった。当然、兵力もわずかだが擁している。現在の〈琅〉の強みは、いざとなれば背後の草原に暮らす戎《じゅう》族と連係できることだ。蒼嶺部《そうれいぶ》の長の左車《さしゃ》は、〈琅〉の援助を受けて、一族を立て直した。現在は草原へもどっているが、〈琅〉の——特に羅旋の要請《ようせい》があれば、すぐにでも馳せつけるだろう。  その藺季子に、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は極秘に面談を申しこんだ。場所は、安邑城内の無人の家で、深夜ということになった。むろん、そこまでの交渉は|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器ではなく、供の男たちがやってのけたのだ。 「〈琅〉の将来の御《おん》ためを思い、やってまいった」  あらわれた相手が、思ったよりも若く、おとなしそうに見えたのにほっとしながら、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は平伏してみせた。 「ほう、〈琅〉のためですか」  藺季子は、おだやかに微笑して、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器のことばをくりかえした。 「先年来、わが〈征〉と〈琅〉との間には戦が続いているが、これは憂うべきこと。戦が続いたために、民は土地からひき離され、傷つき、命を落としておる。〈征〉の民も〈琅〉の民も、戦を厭《いと》うことは同様かと存じる。そこで——」 「和議なら、もう結んだはずです。二重に結ぶことはないでしょう」  藺季子のことばに、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は内心で首をすくめた。季子の意見に感銘《かんめい》をうけたわけではない。〈征〉を出る時、漆離伯要が教えこんだ想定問答どおりに、季子が応えてきたことに驚いたのだ。 (漆離伯要め、なんという——) 「たしかに、和議は結ばれた。では、両国の民の血であがなわれたそれが、いとも簡単に破られようとしているこの現状は、いかがなさる」 「さて、なんのことだろう」 「失礼ながら、〈琅〉王陛下が現在、国都を留守にされているのは、なに故か」 「ああ、そのことなら」  季子は、予想していたかのようにあっさりと、 「遷都《せんと》を考えているので、その候補地を視察にいったのです。それだけですよ」  笑って答えた。 「遷都?」 「この安邑は、西にありすぎて不便なことがひとつ」  季子はしずかに指を折って数えはじめた。 「ここに、耕すための土地が少ないことがひとつ」 「土地ならば、西にいくらでもあるではないか」 「ここから西は、戎族の一部が遊牧地に使う土地です。乾燥した土地ですから、一度耕すと、そこから土が剥《は》がれてしまい、遊牧ができなくなります。それが、長い間の両者間の不和と不信の原因でした。逆にいえば、戎族と中原の民が上手に住み分けられれば、問題の大半は片づくわけです。かといって、〈琅〉も最近、人が増えました。多くは、東から逃散してくる者で——」  この時、はじめて季子が油断ならない目をしたのを、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は見逃していた。 「彼らのために、あらたに土地を得なければなりません。多少、東に領土が増えましたが、そこに先に住んでいる者から奪うわけにはいきません。一部、戦乱で見すてられた土地を手入れしなおして解決するとしても、さらに未開の地——たとえば、北方の山地などを開墾する必要があります。とすると、大がかりな事業になってしまう」 〈琅〉の今後の方針は、本来なら機密にも近いことだ。だが、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器はまともに聞いていなかった。彼は、この男を説得するために——別のいい方をすれば、いい負かすために送りこまれたのだ。それができなければ、〈征〉へもどれない。贅沢な暮らしも、できなくなる。相手の長広舌を、おちついて聞いている余裕は最初からなかった。 「国都が、その開墾地の近くにあれば、事業もすすめやすいというもの。それで、遷都を——」 「理由がおありなら、けっこう。だが、それはどなたの頭から出たことかな」 「だれといって、陛下の頭と口から出たことに決まっていますが」 「——おわかりのはずのくせに」  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、わざとらしいふくみ笑いを見せた。 「〈琅〉王陛下は、戎族の赫羅旋のいいなりだと、わが国ではもっぱらの噂ですぞ」 「それは、噂でしょう」  藺季子は動揺の色もない。 「仮に真実だとしても、陛下は十代の子供ではない。自身で判断して採用されたのだから、それでいいではありませんか」  これは、〈征〉に対する嫌味だったが、〈征〉人ではない|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器には今ひとつ、効果が薄かった。 「だが——それでは、そのうちにこの国は、あの戎族に乗っ取られてしまうぞ」 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器どの」  顔はにこやかなままながら、突然、藺季子の声が堅くなった。 「われら、藺家の者の血の中にも、戎族の血は強く流れています。現に私の母は、戎族です。少なくとも、この国でそんないい方は慎まれた方がいい」  強い制止ではなかったが、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は自分がしくじったことを知った。 「こ、これは失礼を。悪気があったわけでは……ああ、決して。ただ、戎族であろうとなかろうと、赫羅旋の存在が危険だと申しあげているわけで——その、奴めは、自分自身の軍をかかえているようなもの、つまり、その、〈琅〉王の命令に従わず、おのれに忠誠を誓う兵どもを養っているわけだから」  完全に羅旋の支配下にある兵は、騎馬兵だけで、これはせいぜい千か、未熟な兵を含めても二千あるかないかだが、その機動性と破壊力は、ようやく中原でも注目されはじめている。  その上に、先年、流罪からもどってきた段大牙の軍が加わった。許された経緯といい、以前からの関係といい、彼が羅旋の命令に一も二もなく従うこともはっきりとしている。羅旋が、巧妙に隙をついて〈琅〉王位を狙ったとして、それが成功する可能性がまったくないとはいえない。  野心のない男などいない——それが、漆離伯要の考え方だった。たしかに、赫羅旋は今まで〈琅〉に忠実だった。だが、もともとは傭車《ようしゃ》などをやっていた風来坊であり、腹の底は知れない。権力と武力を手にして、目のくらまない男がいるだろうか。彼は、別の国に在ったとしても、いずれその国にとって危険な存在になる男だ——。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、伯要のその思考をそっくりそのまま、一方的に語った。たしかに、饒舌《じょうぜつ》、流暢《りゅうちょう》という点だけなら、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は使者の才能があった。 「〈琅〉王陛下が羅旋を信任されているのは、いたしかたない」  と、ここへきて、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は声を落とした。 「ですが、貴殿の本心はいかがかな」 「私ですか?」  つられたように、藺季子の声も落ちる。 「このままでは、この国は藺家の手からこぼれ落ちてしまうぞ。武力で奪われないまでも、戦で功績を立てれば、発言力が増す。失礼ながら、藺家の方々が国政から排除され、羅旋ひとりに権力が集中してしまう日が来ないと、だれがいえよう」 「かつて、衷王が〈征〉の先君に圧されたように、ですか?」  この嫌味は、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器にも通じた。 「私に、どうしろとおっしゃるのです、漆離伯要どのは」 「安邑にも、兵が残っている。そして、貴殿は藺家の方々にも信をおかれている。今とは申さぬ。ただ、時期を見て、赫羅旋を討つ兵を挙げていただければよいのだ」 「だが、陛下は羅旋を信用されています。羅旋を討てという命令が、陛下から出ることはないでしょう」 「ならば、〈琅〉王を廃して、貴殿がこの国を奪われればよい」  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の声が、地に引きこまれそうなほど低く、小さくなった。ささやくような声だったが、声はたしかに藺季子にとどいたはずだ。その証拠に、顔色がさすがに変わった。 「奪ってしまえばよい。〈征〉は現在、〈琅〉との戦に備えている。〈琅〉を先君の仇と申す者の声が高く、押さえるのはなかなか困難ではあるが——だが、貴殿が〈琅〉王になられるなら、〈征〉はそれを認め、援助をしよう。むろん、あらためて和議を結び、以後、互いに攻めるようなことはしないと、お約束しよう。両国が手を組んで、〈衛〉にあたれば、この天下は西と東、われら二国で二分できようぞ」 「本気で、申されているのですか」 「儂は、ただの使者だが」  相手が肩から身をのりだしてきたのは、見逃さなかった。 「漆離伯要どののことばは、まちがいなくお伝えしている」 「では、それを文書にしていただきたい」 「それは——」  こんな密談は、どこにも証拠を残さないのが鉄則だ。伯要がこの申し入れを書簡にせず、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器に口頭で伝えさせたのも、そのためだ。さすがに、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器もその程度は理解できる。 「口約束、ということばがあります」  と、とたんに季子の顔から興味の色が醒《さ》めていく。 「戦をやめるとおっしゃるが、そもそも、〈征〉の先君の仇などというのは、いいがかりもいいところ。戦の前に急死されたのは、だれもが知っていることです。先君の病にわれらは何の責任もありません。不義の戦を仕掛ける側が、この条件で戦を止めてやるというのは、筋がとおりませんよ」 「それはそうだが——」 「それに、万が一、私が今、〈琅〉を簒奪《さんだつ》したとしましょう。陛下や赫羅旋、その他の将軍たちの抵抗を力で潰して、首尾《しゅび》よく王になったとしましょう。内乱で力を削《そ》がれたところで、わが国を〈征〉が攻めないという保証はだれがしてくれるのです」 「それは——」 「野心は、だれにでもあるもの。たしかに、この私にも、多少の自負と野心はあります。では、漆離伯要どのには、ないのでしょうか」  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の額に、じっとりと脂汗がにじんだ。 「なるほど。たしかに、文書にはしにくい問題です。では、かわりになにか、盟約の印になるようなものでもけっこう。人でも物でもよい。〈征〉の大切なものを、預からせていただくというのではいかがでしょう」 「……何を、ご所望か」 「それは、漆離伯要どのが、この条件に同意くださった上で、申しあげることにします」  同意した以上は、何を指定されても否とはいえない。こんな条件を持って帰ったら、伯要は怒り狂うかもしれない。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、長い間、考えて——いや、考えこむふりをしていた。 「とにかく、いったんお引き取りください。漆離伯要どのと協議の上で、あらためておいでいただければ、話にのりましょう。正直な話——」  ふたたび、季子の声が低くなった。 「赫羅旋には、反感を持つ者も少なくないのですよ、この国は」  その目を見て、はっと|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は何かさとるような顔つきになった。  それで、暗黙裏の了解がとれたと思ったのだろうか。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の方が先に辞去を口にした。 「夜明けとともに安邑を出て、その日のうちにできるだけ遠くまで行くつもりなのでな」  もったいぶって出ていったあともしばらく、藺季子は灯火をひとつ点しただけの無人の部屋で、じっと座っていた。外の気配にじっと耳をかたむけていたが、やがて、 「——帰りましたか」  虚空にむけて、質問した。 「ああ、あたふたとな」  嗄《しわが》れた声が響くように応えて、同時にぼうと人の影がうかびあがった。  小柄な、ひどく痩《や》せた老人だった。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器め、こんな西まではおのれの悪評が届いていないと思うて、のこのことやってきおった。しかも、漆離伯要の手駒《てごま》とはの」  毒づく声が、しかしどこか笑っていた。 「供の者が何人かいたようでしたが、五叟《ごそう》先生」 「おお、五人いたようじゃ。全部、漆離伯要の弟子じゃな。一応、全員、このまま帰途《きと》につくようだが——国境を越したら、どうするかわからぬぞ」 「また、もどってくるでしょうか」 〈琅〉の王族であり、国相のひとりでもある藺季子が、この老人には本心から敬意をこめて話すのは、彼が左道《さどう》の方術《ほうじゅつ》に長けているせいだけではない。五叟老人こと、莫窮奇《ばくきゅうき》という人物は、医師としても武器の発明家としても、〈琅〉には欠かせない人物となっているのだ。  五叟老人は、目をきろきろと光らせながら季子の前に足を組んで座りこんだ。 「さて、奴らが、どんな指令を受けているかは、見当がつかぬわい。おそらく、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器めが知らされてないことまで、命じられていることは確実だがの。そなたの説得が不調に終わることは、予測のうちだったと思うが、ゆさぶりをかけるなら、もう一度ぐらい、接触を試みてくるとは思うぞ」 「その時には、どうすれば——」 「なに、また同じ論法で、あくまで文書か品物がほしいといってやればよい。奴めの目的は、〈琅〉の五相の中に不和と不信の種をばらまき、国内を攪乱することじゃ。そなたが応じる気配をみせれば、その噂を前線の羅旋や羊角らに撒《ま》くだろうし、その逆の噂を如白の耳にいれようともするだろう。この際、事実は必要ないのが、やっかいなところじゃな」 「まったくのところ——」  藺季子は静かな表情のまま、 「冷や汗が出る思いでしたよ。もしも、前もって五叟先生に別室にひそんでおいていただかなかったら——」 「うかうかと、誘いに乗っていたかの?」  意地悪そうに、五叟は目の隅で国相のひとりをにらんだ。 「そうですね、もしかしたら」  季子は、否定しなかった。 「あの誘いは、魅力的でしたよ。如白にしたところで、やむを得なかったこととはいえ、同族——兄弟を殺して〈琅〉公となったわけですから。私が如白を倒して〈琅〉王となったとしても、如白に文句をいわれる筋合いはないわけです。人と生まれた以上、一国の王というのは、非常に魅力的な地位ですし。一瞬でいい、王として人の上に君臨できたらと思う者は、少なくない。私に、野心がまったくないわけでもありませんし。だが」  季子はまた、笑った。その表情にかげりはない。何か憑《つ》き物が落ちたような顔つきではあったが。 「淑夜どのが鳩の書簡で予測してきたとおりに、事態が動きましたからね。しかも、使者の論法までほぼ、見透かしていたのには驚きましたよ。悔しくもあり残念でもありましたが——仕方がない。私が、奴の誘いにのった場合の対応も、淑夜どのは考えているだろうし、みすみす罠《わな》にはまりにいくような真似は、私もしたくないですよ」 「ふむ。正直なところ、季子どのを見張れとは、なんということをいってよこすかと、儂も一時は思ったが」 「でも、おかげで、陛下にも羅旋たちにも、私の潔白を証明してもらえます」 「まったく、な。淑夜の読みにはおそれいったわい。あやつに面とむかっては、いえぬがな。なかなか、やるようになったものじゃ。だが——」  笑っていた五叟老人だが、不意にかすかに首をかしげた。 「どうかしましたか」 「なんとなく、釈然《しゃくぜん》とせぬのじゃよ」 「何かまだ、ご不審《ふしん》ですか?」 「いや、季子どののことではない。今回の件でもない。理由はないのじゃ。ただ、いやな予感がするとでもいうのじゃろうか。こう、頭の隅がちりちりとしてたまらぬのじゃよ」 「予感、ですか?」 「予想外のこと、といってもよかろう。なにか、この件が妙なところへ波及するような気がして——」  老人は頭を振って、 「いや、儂の思いすごしなら、その方がよい」 「先生、予知——占いはできないのですか、方術で」 「儂の方術は、未熟での」  と、老人はにやりと笑った。 「それに、できたとしても、儂は人の未来を占うようなことはしたくないのじゃ」 「それは、何故。先のことが知りたいと思うのは、人の情ではありませんか」 「それで、人が幸福になるならよいがの。次の戦は負けると予言されて、よろこぶ人間がいるだろうかの」 「それは、そうです」 「負けるといって、そうかと納得するような王や将軍ばかりなら、儂も占卜《せんぼく》に身をいれたわい。だが、正直に予言して怒らせれば、こちらの命が先に危なくなるのでは、の。かといって、虚言《うそ》をついたらついたで、この虚言つきめと処罰されるにきまっている。占卜というのは結局のところ、矛盾でしかないのじゃよ。さて」  老人は、ゆっくりと腰をあげた。 「儂は、これから百花谷関までいってくる。ことによったら、義京まで足を伸ばすかもしれん」  この件の報告に行くと、季子も承知していた。 「どちらにも、よろしくと伝えてください」 「ことによっては、不和のふりをすることがあるかもしれん。芝居の稽古《けいこ》をしておかれるとよいじゃろう。それから、儂が留守の間、鳩の世話、よろしゅう頼みますぞ」  鳩は、安邑の王宮の庭にもどってくるよう訓練されている。巨鹿関から安邑までは、この鳩で簡単に、しかも人や馬を使うより速く、連絡がつくようになっていた。漆離伯要の使者の到来を予言した、耿淑夜の手紙も、そうやって鳩の脚につけられて来たのだ。  他に、百花谷関と義京、それに〈容〉と対峙している羊角将軍の曲邑に、この鳩は、数十羽ずつ常備されている。その世話の責任は、この鳩の便りを考案した五叟が負っていたのだが、 「そろそろ、弟子どもも世話をおぼえたでの。逆に、安邑から他の土地へ飛ばせる鳩も、育てる必要があるしの」  よい機会だからと、自分で行くことにしたのだ。 「お気をつけて、五叟先生」 「おお、季子どのもな」  当然のことながら、藺季子の説得に失敗した|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器をあたたかく迎えてくれる者はいなかった。共に旅をしてきた供たちでさえ、 「話にもなりませんでしたな」 「弁舌《べんぜつ》は、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》どのの得意とするところではなかったか。かならず説得してみせると、漆離先生に大見栄《おおみえ》を切られたのを、我らは耳にしましたぞ」 「さしたる収穫もなしに故国へ帰ったら、さぞ、先生はお怒りになるでしょうなあ」  口々に責めたてた。 「うるさい、うるさい」  叫びたいところを、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は我慢していた。正直、彼もどうやって〈征〉へもどろうかと、思案していたのだ。彼の身のおきどころはもう、〈征〉にしかない。ここは、頭を下げ供の者にも下手に出て、連れて帰ってもらうしかない。漆離伯要は鷹揚な人間だから、許してくれるだろうと、彼は甘い幻想を抱いていた。  翌朝、人目を避けるように安邑を出た彼らは、五叟老人の予測どおり、国境となった曲邑までは、まっすぐに旅を続けた。  曲邑一帯は、去年の秋、〈征〉と〈琅〉の戦場となったため、土地が荒れている。曲邑自体、もともとそう大きな城邑ではなく、旅人のための施設も整っていない。朽《く》ちた家の軒先《のきさき》を借りた野宿は、うちのめされた|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器をさらに眠れなくしていた。  そしてその夜、彼が眠っていると思った供の者たちが、焚火をかこんでささやく会話を聞いてしまったのだ。 「さて、このあたりでよいかな」 「これ以上、東へもどると、〈征〉と〈琅〉と、どちらが手を下したかわからなくなってしまう」 「野盗の仕業に見せるのだから、別に、どちらでもよいようなものだがな」 「うむ、最近、ふとどきなことに、〈征〉から他国へ逃亡する者があるらしい。そやつらが、このあたりを通るとも聞いているから、それでもいい。逃亡者が、〈征〉の使者に見つかって居直ったとでも」 「それでもよい。〈征〉の使者が、〈琅〉国内で殺された——いや、殺されたらしい、という事実さえあればいいのだ。〈琅〉の責任を問う材料を、今からたくわえておこうという話なのだから」 (殺される——この儂が?)  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、焚火の明かりが届かない物陰で、横たわったまま身を縮めた。 「別に、今すぐ、〈琅〉に難癖をつけようという話でなし、そのうちに、使えればよいという腹だ。使えなければそれでもよし、あの穀潰《ごくつぶ》しの始末がつくだけでも、先生はおよろこびだろうよ」 「しかし、それにしてもまわりくどい手を使うものだ」 「調略とは、そういうものだ」 「今回のことにしてもそうではないか。戦をするより、安上がりで手間もかからないというなら、なにも、留守居の者に危険を冒して会いにいって、成るか成らぬかわからぬ裏切りをそそのかすより、いっそ、〈琅〉王を暗殺してしまった方が、よほど早いし簡単ではないか」 「万一、〈征〉の者が下手人と知れたら、逆効果ではないか」 「刺客なら、あの大口をたたく腰抜けにやらせればいいではないか。あやつが〈衛〉の耿無影の寵姫の叔父だということは、知られていよう。〈琅〉王を殺したあと、あやつが殺されたところでかまうまい」 「あの腰抜けに、人が殺せると思うか」 「それに、殺す前に捕まる可能性もある。殺したあと捕まって、こちらのことをべらべらとしゃべられれば、身もふたもないではないか」 「まったく、役に立たない奴だ」  吐き捨てる声がして、 「だから、このあたりで死んでもらおうというのだ。死んでから、我らの役にたつだけ、ましというものだ」 (おめおめ、殺されてたまるか)  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は腹の底で、うめくように思った。 (腰ぬけだと、役たたずだと。この儂を、代々続く〈衛〉の|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家の当主だった儂を。漆離伯要など、どこの馬の骨ともわからぬ、成り上がりではないか。その弟子も、ついこの間まで泥と糞《くそ》まみれになって、畑ではいずり回っていた土民ではないか。そやつらが、この儂を莫迦《ばか》にし、罵《ののし》り——)  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、ぶるっと細かく身震いした。 (殺される。このまま、ここにいたら殺される。逃げなくては——)  さいわい、今日までおとなしくだまされてきた彼のことを、警戒している者はいない。しかも、そろそろ連中は、火の番ひとりを残して眠りにつこうとしている。寝静まったところを見計らって、着のみ着のままで逃げ出せば、なんとかなるだろう。  さいわい、というべきか、このあたりは〈征〉から〈琅〉へ逃亡する者らが通る道でもある。そういう農民を装えば、〈琅〉に引きかえすことも可能だろう。  路銀《ろぎん》や衣類、商人に偽装するための荷物など、捨てていくのに惜しいものはあるが、命には代えられない。その点、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は思い切りがよかった。 (しかし、逃げるといって、どこへ) 〈征〉はもう、あてにならないだろうか。いや、すこし待て。 (この失地、〈琅〉王の首で挽回《ばんかい》できぬだろうか)  ついさっき、口汚く罵倒された声が耳に残っている。 (挽回はならぬまでも、儂が腰抜けではないという証明にはなる)  自分を利用した漆離伯要を見返し、這いつくばらせることもできるかもしれない。 (よし、決めた——)  腹ばいになり、腹を泥で汚しながら、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は夜の中をどこまでも、惨めに這い出していったのだった。      (二) 「陛下、尤《ゆう》夫人がお目どおりねがっております」  ここのところ、尤|暁華《ぎょうか》は定期的に〈衛〉の王宮に現れる。用事があって耿無影《こうむえい》が呼び付ける場合もあるが、たいていは暁華の方からやってくる。そして、彼女が姿を見せると、取り次ぎの侍僮《じどう》から側近《そっきん》の重臣《じゅうしん》たちまでが、どことなくほっとした顔つきになるのを、無影は敏感に知っていた。  いや、ほんとうは無影が過敏《かびん》にすぎるのだ。戦の気配を感じとって、その準備に忙殺《ぼうさつ》されているのもたしかだが、今の彼には頭の痛い問題がもうひとつあった。 〈衛〉の国政の改革が、思うように進まない。いや、進んではいるのだが、いつのまにか無影の存在が〈衛〉国内で希薄《きはく》になっているような気がするのだ。  ここしばらく、無影が国都・瀘丘《ろきゅう》をずっと不在にしていたせいもある。〈鄒《すう》〉から、瑤河《ようが》沿いに、〈征〉の南端の城邑《じょうゆう》を陥としてまわったのが半年前。  攻めるまでもない戦だった。長い間、外征に力を入れていた結果、高額の税や兵役の負担に、住民は不満を抱いていたのだ。〈衛〉の方が税が安いと聞いて、囲まれた城邑はあっさりと門を開いた。軍の大半が、〈琅〉との戦のために北方へ出ていたせいもあったが、その変わり身の速さは、さすがの無影が鼻白むほどだった。  その城邑を〈征〉に返還すると聞いて、一番反対したのは、当の城邑の住民たちだったが、無影は惜しいとは思わなかった。彼らは、もしも無影が税を引き上げれば、すぐに手のひらを返すだろう。無影が欲しいのは、目先の利害に目がくらむような連中の支持ではない。それに、その気ならばいつでも、この地域の城邑は、力ずくで切りとれる。  それを誇示《こじ》するように、無影は城邑を返還して撤退したあとも、しばらくは国境に近い〈鄒〉に滞在しつづけた。手は引いたが、〈衛〉は手ごわいぞというところを、見せたのだ。  見せつけた対象が、漆離伯要だったのはいうまでもない。  彼の意識を〈琅〉に向けさせて、二国を徹底して疲弊《ひへい》させるためには、〈衛〉を無意識のうちに恐れさせ避けさせる必要があったのだ。  さぐりをいれたところでは、〈征〉の国政を握った伯要は、さかんに「先君の遺志を継ぐ、雪辱《せつじょく》を果たす」といいたてているらしい。彼が国政を牛耳るためにも、先代・魚支吾の路線継承は必要なことだ。この分では、心配いらないと見極め、 「ご苦労なことだな、まったく」  つぶやいて、無影は瀘丘にもどってきたのだが——。  気がつくと、彼の身辺から人が少なくなっていた。いや、もともと他人に慕われるような人柄でなし、孤独を好む性癖《せいへき》でもある。侍僮ですら、いつも身辺に控えさせているわけではないから、これは無影の望むところだった。  問題は、国政の場だった。 〈衛〉には、古くから国君に仕える大夫の家柄が多くある。無影は傍流《ぼうりゅう》の出身だったが、耿《こう》家も国君に次ぐ家柄だった。無影は自身の本家である耿家は滅ぼしたが、簒奪《さんだつ》した後も旧来の大夫家の存在に手をつけることはしなかった。  急激な改革は、彼らの反感をかうことをよく承知していたのだ。それでなくとも、非常手段で政権を奪った無影は、恨まれ嫉妬されている。  実際、一度、〈征〉の煽動《せんどう》にのった連中が、〈鄒〉を守る百来《ひゃくらい》将軍を巻きこんで謀反《むほん》をたくらんだことがある。あの時は、百来の冷静な判断でこと無きを得、無影も厳しい処断は敢えてしなかった。  弊害は多いにしても、長年、国政にたずさわってきた彼らには、まだ利用価値もある。これ以上、彼らを追いつめれば、かならずまた、手を組んで反撃してくるだろう。そうなれば、大きな内戦につながる可能性もある。  いずれ、彼らから徐々に実権をとりあげ、名ばかりの名誉職にまつりあげる腹づもりはあるが、それは無影が学問所で養成した者たちが、国政のすべてを取り仕切れるようになってからのことだと思っていた。  ところが、無影が国都・瀘丘にもどってみると、その旧来の大夫たちの大半の顔が、欠けている。 「某《なにがし》は、病気で長期療養中で」 「某は、失態があって謹慎しております」 「某も、同様。陛下のおもどりを待ってご裁可《さいか》ねがうつもりでおりました」  側近の商癸父《しょうきふ》にたずねると、そういう答えがかえってきた。  念のため、無影自身も調べてみたが、その回答にいつわりはなかった。  ただし、 「某氏の失態を暴かれたのは、商癸父どのご自身ですわ」  無影の耳にいれたのは、尤暁華である。 「某氏が、お家柄を恃《たの》んで法をおかされたのも事実です。商癸父どのは、法に照らして処断なさいました。その権限は、陛下から委託されたものと仰せでしたけれど」  たしかに、留守中の雑事の決済は、商癸父に任せていった。商癸父はその任務を、忠実に遂行《すいこう》したにすぎない。  ただし、 「忠実すぎた、というべきかもしれませんわね」  無影に話す時、暁華はめずらしく皮肉な笑い方をしてみせた。こんな話を無影にむかってできるのは、〈衛〉では暁華以外にはなくなっていた。  彼女が大商人の女当主であり、国政に必要な資金の主な提供者であるばかりではない。奥向きの女たちにも信頼され、ことに|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人が唯一、心を開く相手となれば、無影もおろそかにはあつかえないのだ。ふたりの間が疎遠になって以来、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人・連姫の数すくない要求はほとんど、暁華の口からもたらされたものだった。 「たしかに、商どのはきちんとおつとめを果たされましたわ。大夫がたが法を違えられたのも、事実です。違法と知った上で、横紙を破られた方もありますが、罪としてはささいなもの、ちょっとした過失まで、容赦なくあかるみにさらされました。その結果が、今日のお顔ぶれというわけです」  もともと、大夫たちと、商癸父たちの仲は険悪そのものだった。長年にわたって特権をふりかざしてきた大夫たちに対しての、商癸父たちの敵意は隠しようがなかった。また、門閥《もんばつ》も財産もなく才能だけで成り上がってきた商癸父たちに対する、大夫たちの蔑視《べっし》もぬぐいようがない。  好機さえあれば、どちらかがもう一方を排除しようと動くのは、必然だった。  そして、権限を与えられた商癸父やその一党が、この機会を見逃すはずがなかった。 「しかし、躬《み》は断罪の権限までは与えておらぬ」 「商どのも、断罪をなさったわけではありません。ただ、罪をあきらかにされただけのこと」  しかし、すべてその所業は〈衛〉の人間の知るところとなる。そうなれば、商癸父がいちいち報告しなくとも、いずれ無影が帰国すれば、だれかが確実に耳にいれる。無影が違法行為に対して——ことに、庶民への横暴に対してきびしい対応をすることは、彼らもよく承知している。  むざむざ無影の帰国を待っているよりは、その前に自分から引退して、恭順の意を表した方が利口だというのが、彼らの判断だった。  商癸父たちは、けっして越権行為はしていない。だが、結果としては、政敵を確実に国政の場から追いだしてのけたのだ。 「さすがは、陛下のお目にかなった方がたですわ。敏腕と申しあげてもよろしいでしょう。でも、| 政 《まつりごと》をなさる方としては、いかがでしょうね」  暁華は思わせぶりに告げたのだった。  彼女にいわれるまでもない。無影もまったく同感だった。  無影は決して気の長い方ではない。学問所を設立し商癸父たちを学ばせ、たった数年で側近として国政の場にあげてきた。門閥によらず、才能さえあればだれでも国政の場に参加できると示すために、かなりの無理をおしきってきた。  無影の理想は、無影がいなくとも、国政が動くことだ。王などいなくとも、何人かの合議で政を執ることはできるはずだ。政を執る者は、人々の間から能力のある者を選抜して充てればよい。王は、最後の裁可を下すだけの飾り物でもよいのだ。古来、王とは天にむかってよい天候を祈るだけの職務だったというではないか——。  問題は、その才能の持ち主がすぐには現れないことだった。ただ門戸を開いて待っていても、無影が要求するような人材が、都合よくとびこんでくる道理がない。長い時間をかけて養成しなければならないことは、彼も承知しており、そのために学問所も設けたのだが、そこからの登用をあせりすぎ、結果、旧来の大夫たちとの軋轢《あつれき》を生み出してしまったのだ。  その点は、最近になって、彼自身、ようやくそれとなく気がついており、それだけに大夫たちの扱いは慎重にならねばと考えていたところだった。急激な変化は、かならず反動を生み出す。無影自身がすでに、大きな変化を起こしてしまっているのだ。数年をかけて、ようやくその波紋《はもん》がおさまりかけているところで、ふたたび大夫たちの不満を招くのは、まずい。  かといって、あきらかに罪を犯した者を無影が赦せば、今度は商癸父たちの反感をかうだろう。無影の後ろだてを恃《たの》みとする彼らだが、だまって引き下がりはしないだろう。  むろん、彼らの生殺与奪は、無影がにぎっている。必要とあれば、無影の胸先三寸《むなさきさんずん》で商癸父らを解任することも、殺すことすら可能だろう。だが、そうしたら、また一からのやりなおしだ。庶民の若者を選んで学問所に入れ、そこから登用し、政を見習わせ——。  そんなことをしていては、無影の理想とする政は、いつまでたっても実現しない。  この事態をどう裁くか、ここひと月以上、無影はひそかに頭を悩ましていた。  そんなところへの、暁華の来訪である。  表面には出さないが、実はほっとしたのは、側近の者たちばかりではなかった。 「陛下には、相変わりませず、ご機嫌うるわしく」  この商家の女当主も、そろそろ三十に手がとどくはずだが、その容色《ようしょく》はいっこうに衰えを見せない。もともと、女とも思えない度量と才覚の持ち主で、若いころ、相思《そうし》の男と手に手をとって私奔《かけおち》したこともあるそうだ。その貫禄にくわえて、天性の明るさが、陰鬱になりがちな〈衛〉の王宮に、唯一の陽光をもたらしていたといって過言ではないだろう。  この日も、そういってにこやかに彼女がはいってくるだけで、ぱっとその場に花が咲いたようになった。  寡婦《かふ》らしく、身につけている物こそ上等だが、色は地味だ。無影の方が、王にふさわしくよほど美々しいものをまとっている。美丈夫としても知られた耿無影だから、どれほど華麗な衣装でも、実にみごとに着こなしている。にもかかわらず、暁華の方がよほど華やかに見えるのは不思議なほどだった。 「今日は、何の用だ」  不機嫌に無影がたずねると、 「ま、おことばですこと。例の品の納入を早くしろと、矢の催促をなさったのはどなたでしたかしら」  いいながら、かたわらに控えていた侍女に合図する。何本かの巻子《かんす》を盆の上に積み上げたものが、無影の前に据えられた。 「ご希望の書物でございます。わが家の蔵書から写本を作るのに、思わぬ手間がかかってしまいましたが」 「紙を使ったか」  一番上の巻子を手にとって、無影はあくまで不機嫌な口調をくずさない。 「いくら費用がかかってもかまわぬとの仰せでしたので。竹簡《ちくかん》は、安価にしあがりますけれど、かさばりすぎますし、文字もこすれて不鮮明になりがちです」  ちらりと無影の顔をうかがうような目をして、 「長い間、閲覧に耐える物をお望みだと思いましたので」  保存するだけなら、竹簡、木簡《もっかん》の方が適しているだろう。だが、何度も読み返すつもりなら、しなやかな紙や布の方が、負担は少ない。  無影は直接、答えず、 「学問所の方へ運ばせておくように」  盆ごと、軽くおしやる仕草をみせた。背後に控えていた侍僮が進み出、盆を抱えるようにして運び去った。 「中身もご覧にならずにしまわせるとは、お気もそぞろというところですわね」  暁華は、遠慮なく笑った。  無影は、渋い顔をするばかりだ。 「それで、どうなさいますの、陛下」 「どう、とは?」 「大夫がたの処分ですわ。長引けば長引くほど、この件は禍根《かこん》を残しますわ。迷われるとは、陛下らしくございませんわ」 「そなたの口を出すことではなかろう」  無影の冷淡な口調と視線を向けられて、平静でいられる人間は数少ない。尤暁華は、その少ない人間のひとりだった。 「あら、それでは、あたくしの申しあげることに、お耳をかたむけてくださるつもりがおありのようではありませんか」  あっさりときりかえして、にこりと笑ってみせた。 [#挿絵(img/07_091.png)入る]  これには、さすがの無影も毒気を抜かれたとみえて、憮然とした表情をかくすようにそっぽを向いた。 「ご自信をなくされましたの、陛下?」 「自信?」 「そんな風にみえますわ、あたくしには。少なくとも、ご自分のなさったことを、後悔しておいでのように」  無影の刺すような視線が、自分の方にもどってくるのを確認して、暁華はまた笑った。 「ならば、この件、そなたならどう裁きをつける」 「あたくしの口をはさむことでは、ありませんのでしょう?」 「そなたの意見に従う気はない。ただ、聞いてみるだけだ」  暁華は唇《くち》もとで微笑したが、声にはせず、 「では、申しあげます」  いずまいを正した。 「あたくしならば、すべての方に寛大な処遇《しょぐう》をいたします。法を犯した方には減刑、過失とわかっている方については、不問ということで」 「法の目を緩《ゆる》めよと申すか」 「減刑なさるかわりに、被害をこうむった者に対しての償いは、しっかりとさせます。ただ罪に問うより、その方が不満は軽減されましょう」 「それで、おさまりがつくと思うか」 「——陛下、ここ半年ほどの間に、〈征〉の民の不満が急に高まっていることは、ご存知でございましょう? 民の多くは、〈琅〉へ逃げております。何故、はるかに豊かな〈衛〉より、土地も荒れ、戎族の多い〈琅〉の方へ、多くの民が行くと思われます?」 「…………」 「〈琅〉に捕らえられた捕虜が、何の代償もなしに釈放されております。戦の間に捕らえられた者は、手当までほどこされて。降伏した者は、そのまま登用されているそうですわ。そもそも、〈琅〉の五相のうち、ふたりまでが他国の出身。参将、謀士にいたっては、本来の〈琅〉国人の方が少ないほどです。能力さえあれば、戎族ですら高い地位に就くことができます」 「そんなことか」 「そんなことでございます。でも、民には大事なことですわ。身ひとつで逃げていった先で、他所者《よそもの》と白い目で見られるのと、さりげなく受け入れられ、以前からの住人と同等に扱われるのとでは、先行きの暮らし向きがまったくちがってまいります。〈琅〉では、敵の捕虜は絶対に殺さず、戦をするにしても、できるだけ死者が少なくなるよう、工夫するのだとも聞いておりますわ」 「だから、〈征〉につけこまれるのだ」 「でも、民は〈征〉より〈琅〉を選びますわ」 「何がいいたい」 「法は大切ですわ。でも、しょせん法は人が運用するもの、人が生きよいために作られるべきもの。法によって人が苦しむのは、本末転倒《ほんまつてんとう》ですわ。その典型が、今の〈征〉であり、漆離伯要どのの政ですわ。〈琅〉のように大まかになれと申すのではありません。でも、たまに寛容な態度をみせられるのも、悪いことではないと存じます」 「そなた——やはり、漢《おとこ》に生まれるべきであったな」  嘆息を押し隠して、無影はつぶやいた。 「あいにくですけれど」  暁華は微笑んで、かるい会釈《えしゃく》でうけ流した。それ以上、無影にこの献策を採用する気があるか、うかがうそぶりも見せず、 「そういえば、陛下。あたくし、以前から婦《おんな》としてうかがってみたいことがございました」  話を、さらりと変えてしまった。 「なにごとだ」  前の話題にこだわらないのは、暁華の話し方の癖だ。それに慣れた無影は、気のないようすで応えたが、次の質問を耳にした瞬間、こおりついた。 「その昔、連姫さまがまだ、生家においでのころ、窓辺に花を届けてさしあげていたのは、どなたでしたの」 「——なんのことだ」 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人が、以前、つぶやいておられました。どんな贅沢な品物をもらっても、うれしくない。今までで最もうれしかった贈り物は、昔、ある朝、さりげなく院子《にわ》においてあった白い花の枝だと」  語りながらも、暁華は無影の微妙な変化を感じ取っていた。なにより、左頬の傷が、白く変色している。これは、彼が緊張している証拠だ。 「それが、躬となんの関係がある」 「ご存知ないのなら、よろしいのです」  堅い声は、いつもの無影のものと変わらないように聞こえる。だが、ほんとうに知らないなら、無影はもっと不審をあらわにしてくるだろう。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人は、あれを淑夜さまの仕業と考えておいででした。誤解なら、早く解いておいたほうが——」  暁華の声をさえぎって、 「よけいなことを申すな」  無影の低い声が飛んだ。 「よいか。よけいな口だしをすれば、いかなそなたでも、ただではすまぬと覚悟するがよい」 「承知しておりますわ」  脅されてひるむと思いきや、暁華は逆に眼に力をこめてにらみかえしてきた。 「ご心配なく。しゃべる気があれば、あたくしはずっと以前にこの件をたしかめておりました」  怒りさえこもった強い口調に、たじろいだのは無影の方だった。 「物事をはっきりさせる勇気のない方のためではございません。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人のお気持ちを思いやったからでございます。こんなことなら、もしやと思った時にすぐ、確かめればよかった。でも、いまさら申しあげても、だれも幸せにはなりそうもありませんもの。でも」  きっと無影の方を見て、 「ことばにしなければ、だれも何もわかりませんわ」  腹だたしげに、それだけをいうと、暁華は立ち上がった。 「今日は、奥へはうかがわずに帰ります。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人には申しわけありませんけれど」  ほんとうに悲しそうな横顔を見せて、暁華は背をむける。それを引きとめることもせず、茫然と見ていた無影だが、 「申しあげます!」  商癸父の声で、我にかえった。  若い顔が、上目づかいに平伏《へいふく》している。よほどあわてているのか、すぐそこに暁華の影があるのにも気づかないようすで、 「申しあげます、一大事でございます」  くりかえした。 「何ごとか」 「〈征〉で異変が起きた由、たった今、報告がございました」  当然の配慮として、無影も、〈征〉にも〈琅〉にも間諜を何人も送っている。といっても、特殊な人間ではない。商人——尤家のような大商人でもなく、わずかな荷をかかえて行商して歩くような小商人らだ。街の噂や人の動きにもっとも敏感で、しかも動きまわっても不審に思われない彼らは、情報の運び手としては絶好の人材だった。もっとも、こちらの動きを他国に伝える危険もあるが。  だが、商癸父は首をふって、 「いえ、報告は〈鄒〉の百来将軍からでございます。〈征〉で、摂政職・漆離伯要が失脚、所在がしれぬそうで。かわっての国相には、禽不理将軍が返り咲くのではないかとの、噂だそうでございます」 「——能なしめ」  吐き捨てるようなつぶやきが、無影のくちびるからこぼれ出た。 「せめて一年ぐらい、持ちこたえることもできぬのか」  伯要は、〈琅〉へ攻めこむ機会と口実をうかがっていたはずだ。そのための手も、ぬかりなく打っていたらしいとまでは、無影も察知している。  あと一度でよい、〈征〉と〈琅〉が戦をしてくれれば、三国間での〈衛〉の優位はゆるがなくなる。それから、二国のどちらかからゆっくりと攻略にかかればよい——。  その目算が、こうも簡単に狂うとは。  無影は、しかし、かるく頭を振って、すぐに気をとりなおした。 「いや、しょせん他人の才覚に頼ろうというのがまちがいだったのだ。欲しいものは、おのれの力で手にいれるべきだった——尤夫人」  まだその場に立ち尽くしている暁華にむかって、声をかけた。ようやくその存在に気がついた商癸父がおどろいてとびあがったが、無影は無視をして、 「軍資金を用だててもらおう。とりあえず、来年秋の収穫の税の三割を」  通常、税は穀物や布などの物納《ぶつのう》の形で集められる。それを、尤家や同格の大商人に売って金銭に替えるか、武器など必要なものを買う。本来なら、今年の米の収穫分の一部を売ればよいことだが、無影は、糧食の準備には慎重だった。  兵を飢えさせてはならないのは、軍を動かす上での鉄則だ。そして、金銭をいくら積んでも、食料が手に入らない場合もあるのだ。ゆえに、現在の備蓄には手をつけず、来年の収入の一部を担保において、軍資金を前借りしようというのだ。  もちろん、拠出するのは尤家単独ではない。平生から〈衛〉と取引している数家が、その取引額に応じて分担することになる。 「委細《いさい》、承知いたしました。でも」  暁華は、冷ややかな顔つきで応えたが、 「よろしいんですの?」 「なにがだ」 「大きな戦になりそうですわね。でも、来年が豊作になるとは、かぎりませんのよ」 「不服ならば、断ればよい。だが、その時には——」 「我が家の財産を没収するまで——ですかしら。やってごらんになりますか。そうなったら、陛下にご用立てする商人は、ひとりもいなくなりますわよ。どうなさいます?」 「そなたたちは、そこまで莫迦《ばか》ではあるまい」  暁華の表情を見もせずに、無影はいいはなった。 「世の中がどう転んでも、もうけるのがそなたたちだ。何が得で、何が損か計算のできぬそなたではあるまい」 「そのとおりですわ」  暁華は、一礼して退出しかけたが、肩越しにふりむいて、 「でも、世の中すべてが欲得ずくではありませんのよ」  いいすてて、今度こそ本当に姿を消した。 「発つ準備を」 「は、いつでも出来ております」  と、商癸父は得意満面になって答えた。無影が自身で軍を率いていった後、ふたたび国都と国政を任されるのは自分にちがいない。無影の意向を気にすることなく、自分の思うまま、政の腕をふるうことができるのは、快感だった。その気の張りのまま、 「〈鄒〉の百来将軍にも、すぐに使者を遣わします」  気をきかせたつもりで、告げたとたん、 「でしゃばるな」  冷水のような声が、頭から浴びせられた。 「仰々《ぎょうぎょう》しく先ぶれをして進軍する時間はない。こちらの動きを察知される前に、瑤河《ようが》を越えねばならない」 「え?」  前回と同様の、示威行動だと思いこんでいた商癸父は、目をみはって顔をあげた。 「この隙に、今度は新都を取る。この混乱につけこめば、〈征〉の一部を完全に押さえることも可能だろう」  いつかは、決断しなければならないのだ。無影は、〈衛〉一国の王で終わる気はない。長い間、じっとその野心を押さえてきたのは、まず国内の整備を優先させたためと、〈征〉の魚支吾との差を自覚していたからだ。力量・才能はともかくとして、年齢・経験の差は大きなものがあったし、一国を掌握してきた経歴からいえば比較にならない。だから、無影は自重したのだ。  魚支吾の覇業《はぎょう》を正面から阻むのは、むずかしいだろう。ならばその後——魚支吾の支配力がゆるんだ後をねらうのがよい。それまでは、〈衛〉を守り、力をたくわえ、じっと我慢しているつもりだった。  だが、中原の覇王への夢に一番近かった魚支吾が亡い今、もう待つ必要はないはずだ。  新都は、かならず陥とす自信があった。新都が手に入れば、そこを根拠に、〈征〉の国内深く、攻めこむこともできるだろう。  魚支吾は亡く、魚佩はまだ年少で、国をまとめていくことはむずかしいだろう。禽不理は、どちらかといえば武人肌の人間で、しかも政の場に復帰したばかりだ。  巨鹿関まで出てきている〈琅〉の存在を無視するわけではないが、その内情は騎馬兵と歩卒が中心で、数も多くはない。巨鹿関から出る気配を見せれば、出口をふさげばよい。  昔、巨鹿関の谷深くに誘いこまれて、大敗を喫《きっ》した屈辱は、無影も忘れてはいない。だがそれを逆手にとれば、〈琅〉を封じ込めることができるはずだ。  あの戎族が顔を出す隙を、与える気はない。まして——。  商癸父が、そそくさと退出していくのを目の隅におさめながら、無影はすでに、〈征〉攻略の手順をほぼたて終えていた。      (三)  漆離伯要の失脚は、だれにとっても予想外だった。禽不理でさえ自分の身に危害がおよばないかぎり、一年ほどの間は、静観するつもりだったのだ。  その間に、彼に同情する味方をすこしずつ集め、漆離伯要の周辺が襤褸《ぼろ》を出すのを待って、巻きかえそうというのが、禽不理の計画だった。外部との連絡は、例の少年がひきうけてくれることになっていた。あの少年は、いくら禽不理が逐《お》っても諭《さと》しても、数日おきに食物を門前に置くことをやめなかった。ついに、禽不理もあきらめた。あまり危険なことをさせる気はないが、少年が何かと役にたつこともたしかだったのだ。  目に一丁字もない庶民の子で、ただ少児と呼ばれていたのを、少風《しょうふう》とあらためてやったのも、禽不理だった。ちなみに姓は、東《とう》という。邑《むら》の東端に家があるから、そう呼ばれていたのだそうだ。  漆離伯要の失脚の、最初のきっかけをもたらしたのは東少風だった。 「〈帯方《たいほう》〉が、謀叛を起こしたそうです」  ある夜、こっそりやってきて、禽不理に直接告げたのだ。 「〈帯方〉?」  禽不理も、あやうく忘れかけていた名だった。〈征〉の北東に位置する、小さな伯国《はくこく》である。  かつて、〈魁〉の夏氏が中原を統一した時、倒された王の血族を辺境に封じた。一族すべてを殲滅《せんめつ》すれば、祖霊の祭祀《さいし》をする者がなくなり、たたりがおきると思われていたからだ。一族の存続は許す。だが、中央から遠く離れ、土地は痩せ、気候も寒冷な場所で生きることしか認めない。事実上の流罪だった。  それでも、〈帯方〉は夏氏の支配下で生きのび、〈魁〉が滅亡したあとは、〈征〉の属国となっていたのだ。 〈魁〉の滅亡後、多くの国が勝手に王位を名のった。だが〈帯方〉は、〈征〉をはばかって、位を勝手に変えることもしなかった。  人も収穫量も少ないにもかかわらず、〈征〉に収める年貢は、いつも要求額を満たしていたし、戦となれば、援軍と称して兵を送ってよこしてきた。距離を考えれば、国都・臨城《りんじょう》へ来るだけでも、彼らには大きな負担なのに、先年の〈琅〉との戦では〈帯方〉の兵は、もっとも前線の庸関《ようかん》まで出ている。  その後の撤退も帰国も、最後になった。その途上で斃《たお》れた男たちも少なくなかったはずだが、戦死ではないために報告されることすらなかった。  少風は、この臨城の近郊の邑の出だから、かろうじて春の農作業に間にあったといった。だが、〈帯方〉の男たちが帰国したのは、もっと遅かった。それでなくとも厳しい土地柄だ。おそらく、ろくな収穫もなかったのではなかろうか。  取引に細かく税をかけて、商人たちの恨みをかっている漆離伯要のことだ、〈帯方〉からの年貢に対しても、甘い処分をとるはずがない。  伯要が直接、指示していなくとも、彼の下で学び登用されはじめた弟子たちが、黙ってはいないだろう。  実際、〈帯方〉に対しては、先年の二割増しという額が、つきつけられたという。また、ふたたび〈琅〉との戦を始めるという噂も、かなりの真実味を帯びてささやかれていた。  働きざかりの男たちを連れ去られ、食べるものを根こそぎ奪われては、厳しい冬を越すことすらおぼつかない。座して死を待つぐらいなら、〈征〉と戦をして全滅した方が、まだ誇りを保てる——。  年老いた〈帯方〉伯が、そう決断したのだという。  問題は、その〈帯方〉の決意に、事情の似通った、近い地方の民が同調したことだ。たちまち、北東方面の道は封鎖され、物資が滞った。  さすがに臨城へ攻めのぼってくるだけの兵力はなく、こちらから動かないかぎり、戦になる心配はないが、わずかとはいえ、年貢が集まってこないのは困る。北東には、その地方でしか採れない薬草や毛皮、木材など、それなりに貴重な産物もあるのだ。  なにより、〈征〉王の命令をもってしても従わない者が国内に在るという事実は、王と摂政の権威が地に落ちたということだ。  伯要は、〈帯方〉の討伐を検討しはじめた。ところが、伯要の下についていた将たちの一部が、これに反対した。それも道理で、つい先日まで伯要は、〈琅〉を先君の仇よばわりし、 「一刻も早く〈琅〉を討ち、雪辱を果たすことこそ、先君の御霊を安んじる最良の方策」  主張し、反対する者を国政の場から次々とはずしていたのだ。先君のためにと編成しなおした軍や糧食を、〈帯方〉のような小国討伐にふりむけようというのか。結局、漆離伯要の面子のために戦をするのか——そんな不信感が、ただよいはじめた。  もともと、伯要に心服して同調した連中ではない。  ある者は新王・魚佩《ぎょはい》に忠誠を尽くすため、魚佩の命じるままに頭を下げただけだ。ある者は、ここ数年の戦で〈琅〉に手厳しく敗れていたためだし、ある者はただ、権勢を持つ者に従っていただけだ。形勢不利となれば、すぐに手のひらをかえす。  漆離伯要の弟子のひとりが、私腹《しふく》を肥やしていたのが発覚したのは、ちょうどそんな時だった。税を多目に取り立てて、余剰《よじょう》分をふところに入れていたのだ。また、その税で買いあげた食料などはすべて、庶民に放出することになっていたのだが、彼はさらに高い値で別の商人に横流ししていた。  伯要の方法では、流通の過程で過剰に人の手がはいるために、結局は、物価をひきあげてしまうことも、人々は感覚として理解しはじめていた。  それでも不満は、漠然とした不安のようなもので、確固とした形にはなっていなかった。  だが、禽不理は、これを好機と見た。  漆離伯要のことだ、なんとかしてこの事態を乗り切ってしまうかもしれない。〈帯方〉の叛乱《はんらん》といったところで、彼らは北東での自立を望んでいるだけだから、交渉次第では兵を動かすことなく解決できる。もともと食料が少ない土地だから、兵糧攻めにすれば、ひと冬で大勢は決まるだろう。  弟子の不正は、個人を厳しく処罰してみせればよい。むしろ、自分の身内にはより厳しいというところを見せれば、人気が回復するかもしれない。  禽不理が不思議だったのは、果断な対応が身上の伯要が、決断をためらっているように見えたことだ。解決の方策はすでにたっているのだが、それを明らかにできない——時を待っているようにも思えた。  不思議には思ったが、禽不理の方には迷っている暇がなかった。  人を通じ、ひそかに魚佩に密書を送るのは、あまり諜報が得手ではない禽不理には、簡単なことではなかった。ことがことだけに、仲介の人間の数は、極力減らす必要もあった。  例によって蜜蝋に封じた書簡が、少風と、後宮の婢《はしため》の手を通して、魚佩の手に渡ったのは、〈帯方〉の叛乱の報を聞いてから十日目のことだ。  人目につかないように、深夜、王宮へ伺候せよとの指示が下ったのは、その二日後のこと。翌日、禽不理は下肥え処理の老人に扮して、王宮の不浄門からしのびこんだ。 「禽将軍。これは、事実だろうか」  年若い王の手に握られていたのが、野狗《やく》と名のった夜盗がよこした、漆離伯要の書簡であったのは、いうまでもない。  内容は、ただの時候のあいさつにすぎない。だが、 「伯要と耿無影は、平生、あいさつをとりかわす間柄なのか。そんなこと、孤《こ》はひとことも聞いていない」  親兄弟や友人同士が敵味方に別れて戦うことは、めずらしくない。敵同士でも、書簡のやりとりをしても不思議ではない。だが、 「やましい点がなければ、秘密にする必要はないはずであろう。それに、双方の間の書簡が、これ一通だけとは、考えられない」  あまり壮健ではなく、気も弱いといわれる魚佩だが、頭はけっして悪くない。たよりなげな、訴えるような視線を、 「臣が手に入れましたものは、それだけにございます」  禽不理は、しっかりと正面から受け止めてやりながら答えた。 「臣も、まさか、漆離どのがわが国を売ろうとしたとまでは思いませぬ。交渉事ひとつにしても、ふだんからの信頼の有無で、進み具合が異なります。その信頼関係を築こうとした可能性もございます」  かばうつもりはないが、確証のないことをいいたてて、伯要を無実の罪に落とすつもりは、禽不理にはなかった。無用の恨みを買う必要はない。  ただ、彼を弾劾するなら、完全に政の場から排除してしまう必要があった。 「漆離どのには、それなりに深い考えがあってのことでしょう。ですが、少なくとも独断で図ることではないはずです。先君から了解は得ていたのかもしれませぬが、それならば、ご崩御《ほうぎょ》の後、あらためて陛下のご裁断をあおがねばならぬはず」 「どうすればよいと思う」  裏切られた痛みを、魚佩はそのまま表情にも声にも出した。少年の胸中を考えれば、禽不理はさらに強いことがいえない。 「本人に、問いただしてみるのが一番かと存じます」 「なんといえばよい」 「耿無影ととりかわした書簡の全容を、すべて提出するようにと。やましいことがなければ、即座に応じるでしょうし、下手な弁明もしないでしょう」 「正直に申すと思うか」 「——わかりませぬ」  それは、禽不理にも答えようがなかった。彼自身、こんな場合にどうするかと考えてみたのだが、言い抜けを必要とするような場面に追いこまれたことがないだけに、想像がつかなかったのだ。 「ただ、内心の動きはそぶりに現れると申します。御前で直接、問うてみて、漆離どのの挙動を観察するしか——」 「禽将軍には、わかるか」 「やってみましょう」  漆離伯要にくらべ、武人の禽不理はずっと単純で、人の腹をさぐるなどという作業にはむいていない。だが、魚佩にすがるような目をして頼まれれば、できませぬとはいえなかった。  翌朝、さすがに渋い顔をしながら王宮へとやってきた漆離伯要は、居ならぶ重臣たちの間にさりげなくまじった禽不理の顔を見て、ぎくりとなった。 「おそれながら、陛下。禽将軍はいまだ、蟄居《ちっきょ》中のはずにて——」 「孤が、許した」 「私は、うかがっておりませんが」 「先生の許可が必要だと申すか。他の臣たちは、皆、同意してくれた。戦をするならば、やはり禽将軍のような老練な武人の力が必要になるだろう」 「おそれいります。なれど、戦にはなるまいかと」 「〈帯方〉と戦をするのではないのか」 「これから冬になります。〈帯方〉は雪の多い地で、兵は動かせませぬ」 「ならば、〈琅〉とは」 「今——戦を回避する策を練っております故」 「孤は、そんなことは聞いておらぬ」  魚佩は背筋をのばして、声を高くした。 「〈琅〉と戦をすると申したのは、そなただ、漆離先生。戦を回避するなら、なにも禽将軍を蟄居させる必要はない。禽将軍こそ、〈琅〉との和議をまとめてきた、功労者ではないのか」 「それは——」 「漆離先生、孤の方からうかがいたいことが、もうひとつあるのだが」 「なんでしょう」  いらいらとした口調に、かすかなひるみが混じったのを、禽不理は聞き逃さなかった。理屈ではない、直感である。 「〈衛〉の耿無影とは、何度、書簡をとりかわしたことがあるのか」 「——耿、無影?」  虚《きょ》を衝かれた声だった。 「私を、うたがっておいでか、陛下」 「ことばを慎みなさい、漆離どの。御前ですぞ」  儀礼担当の重臣が、声を鋭くかけた。 「うたがっているわけではない。だからこそ、ほかの者にも先生の潔白《けっぱく》を証明する必要があるのだ。もしも、先方からの返事が残っているなら、すべて提出するがよい。保存していないなら、憶えているかぎりを書き出すよう。むろん、先生が先方に送られた文書についてもだ」 「私は——」 「書簡を送ったことがないとは、おっしゃるまい。孤は、先生を信じている。故に、兵を派遣するようなことはせぬ。先生が、みずからの手でことを明らかにされることを、望むのみだ。孤は、あくまで先生の無実を証明したいのだ」 「——承知、いたしました」  口先で言い逃れることはできないと、すぐに悟ったらしい。禽不理に、鋭い視線をなげつけながら、 「では、潔白のあかしをたてることといたしましょう。ただちに帰宅いたします故、ご許可を」  そして、城下の自邸にもどったところまでは確認された。禽不理の手配で、それとなく、見張りの者がその邸宅の周辺に配置された。  漆離伯要は妻帯《さいたい》しておらず、家族もない。質素な邸内には、弟子と使用人が数人ずついるだけで、人の出入りもない——と思われていた。  ところが、その翌日、漆離伯要は出仕してこなかった。書簡の量によっては、たしかに一日で片付く作業ではないが、 「いや、それほどの数は、ないはずです。とにかく、途中でよいから、一日に一度、顔を見せるようにとお命じください」  禽不理の進言で、使者が派遣された。その使者が、青ざめた顔で復命するまでに、さほど時間はかからなかった。 「おりません」 「なんと?」 「漆離伯要どのは、邸内におられません。昨日の夕刻まで、自室で書き物をなさっていたことが確認されております。今朝、朝餉《あさげ》には顔を見せられなかったそうで、早朝、車を自身で駆って邸を出る伯要どのを見た家人がいるのですが……」  王宮へ向かうのだろうと、家人たちは思ったという。  夜明け前に王宮へ向かうのは、めずらしいことではない。王宮の門は夜明けと同時に開くものだ。そして、門閥も家柄もない伯要が、ことさらに身軽さと身辺の清潔さを強調するため、供を連れずに出かけるのも、よくあることだったから、誰も不審には思わなかったのだ。 「そういえば、深夜、旦那さまのお部屋で、ぼそぼそと人の声がしたようにも思いました。ですが、仕事中のひとりごとは、珍しくないことですし、だれか、他処の者が参っていたとは思えません」  使用人の証言で、さらに失踪の疑いが強くなった。 「しかし、何故——」  これは、さすがの禽不理にも意外な展開で、とまどうより他なかった。  漆離伯要の、〈征〉への野心も執着も、禽不理は知っていたつもりだった。その野心が、ふつうではないことも承知していた。彼の野心の目的は、権勢をふるうことではない。まして、金銭や贅沢な暮らしではない。たしかに、政敵を逐い落とそうとはしたが、それはおのれの理想とする政を、容喙《ようかい》なしにやってのけるための過程でしかなかったはずだ。  そのために魚支吾に近づき、人の嫉妬《しっと》やあからさまな蔑視をはねかえしてきたのではなかったのか。それが正しいことかどうかは、禽不理にも判断はつかないが、伯要の苦労は知っているつもりだった。  魚支吾が没した今、魚佩を自在に操れる立場と状況は、彼にとっては理想ともいえるはずだ。それを、これほど簡単に棄てて、逃げだせるものだろうか。それでは、退出の時に禽不理に向けた、あの視線はいったいなんだったのだろう。 「それとも、本当に〈征〉を売る気であったのか。とうてい隠しきれぬと見て、逃げたのではないか」  そんな声もあがったが、禽不理は納得しなかった。動機が薄すぎる。決定的な証拠は、禽不理たちも手にしていないのだ。禽不理も実は、手にいれた書簡の出処をあらためて尋ねられれば、答えに窮する。それが、反撃のひとつもせずに逃げるとは。  漆離伯要の失踪が決定的となり、邸の捜索が行われたが、伯要が処分していったものか、不審なものはなにひとつ見つからなかった。  ただひとつ、夜分に人の声がしたという件だが、 「もしかしたら、邸の者も知らないうちに、だれかが訪れてきていたのかもしれませぬ」  使用人のひとりが、首をひねりながらいった。 「いえ、確証はありませんが。ただ、人の気配だとか聞き慣れない声だとか、後から思うと、そうではなかったかと思うようなことがございました」  当日の夜、目を光らせていた者たちも、そこまでの事態を想定していたわけではなく、すべてを見ていたわけでもない。 「すると、その夜分の来訪者が、なに事か、漆離伯要の耳に吹きこんだにちがいない」  と、推論したものの、禽不理はそこまでで満足するしかなかった。  漆離伯要が去ったあと、禽不理が中心になって行わなければならないことが、山積みだったからだ。国内の税制の修正、〈帯方〉とその周辺への宣撫工作、そして〈琅〉との和議の確認をと思っているところへ、 「〈衛〉が瑤河を渡りました。新都は、すでに包囲されております——」  急使が息もたえだえに駆けこんできたのだった。  いなくなった者の追及など、している余裕はなくなってしまった。  結局、禽不理と魚佩が、伯要の失踪の真の理由を知るのは数年後のこととなる。その時、すでに〈征〉は統一の覇業の夢からは、遠ざかっていたのだった。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が逃げた」  伯要のもとに、その夜、もたらされていたのは、その復命だった。むろん、〈琅〉の藺季子《りんきし》との交渉が不調に終わったことも、報告されたが、それはある程度覚悟していた。ただ——。 「あの|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器めは、この裏を知っているのだ。しかも、世辞にも口が堅いとはいえぬ軽薄子《けいはくし》だぞ。〈衛〉との関わりを問われている今、同時に〈琅〉と裏取引しようとしていたことが知れれば、私の立場は——」  魚支吾が存命なら、彼に無断で事を運ぶようなことはなかっただろう。もっとも、存命なら、こんな小細工は必要なかったかもしれないが。  魚佩を相手に、策を語ることを伯要はしなかった。事後承諾で十分だと思っていた。事が成就したあと、方策を説明すればそれでよいではないか。どうせ、と侮《あなど》るわけではないが、魚佩に思い切った決断ができるわけではないのだ。  また、藺季子との交渉が成功していたとしても、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の口は封じるつもりだった。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、後々、かならず手柄顔をしてしゃしゃり出てくるにちがいない。ならば——と思ったのだが、こんな裏目に出るとは思ってもいなかった。  逃げたというからには、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は身の危険を感じたのだろう。伯要が何を考えていたか察知したと見て、まずまちがいない。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器のような小人が、その後、何を考えるか。伯要への報復以外にはありえない。そして、もっとも効果的な復讐はといえば、おのれの知っていることをあらいざらいしゃべることだ。  では、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器がどこへ逃げるか。〈征〉へもどれず、〈衛〉にも帰れない。だが、〈琅〉へ保護を求めることはできるはず——と、伯要は考えた。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が、赫羅旋や段大牙らと面識があり、彼らから忌避されていること、また|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の方でも、耿淑夜をきらっていることは知らなかった。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器がどこぞでのたれ死ぬ可能性もあるが、期待はできなかった。これまでの経緯からいっても、かならず生き抜いて、とんでもないところで顔を出す。その動物並みの勘と生命力は、過小評価できない。  正直なところ、伯要はこの半年の間の自分の施策が、失敗したのを承知している。魚支吾が定めた方針にそって、策を立て実施していくのはたやすかった。反対意見は、魚支吾がおさえこんでくれた。失敗したとしても、それは魚支吾の責任となった。  だが、魚佩を上にいただくかぎりは、そういった雑事もすべて、伯要が処理しなければならない。  強力な指導者の下でなければ、自分は実力をすべて発揮できないのだと、伯要は考えた。ならば——嫌疑をかけられ破綻《はたん》しかけている〈征〉に、執着する必要はないのではないか。  そんな気にもなった。  彼らしくない、弱気といってよかった。  それでも、まだ、この時点では彼は逃げることまでは考えていなかった。どうやって、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の口を封じるか。彼が、これまでの経緯をあらいざらいしゃべったとして、それをどうやって否定するか。  勝算が、まったくないわけではなかった。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の軽薄さは多くの者が知っているし、彼のことばを、他国の——たとえば〈琅〉の謀略、いいがかりだと居直ることも可能だろう。  ただ、そうするためには、魚佩の信頼を一刻も早く、回復しておく必要があった。魚佩が伯要の肩を持つかぎり、まだ、彼が〈征〉で生きていく余地はあるはずだった。  未明、ひとりで邸を出たのも、だれよりも早く魚佩に面談を申しこむためだった。供をつけなかったのは、質素さを見せるためだ。〈衛〉から、不正なものは受け取っていないという示威のつもりだった。  それが裏目に出た。  軽い音をたてて走る車めがけて、まだ暗い路地から黒い影が、まっしぐらに飛び出してきたのだ。  車を引いていた馬が、驚いて竿《さお》だちになる。反射的に手綱をさばいた伯要だが、車が横転するのは避けられなかった。  どっと路上に投げ出された伯要の身体にむかって、 「この、ひとでなし!」  罵声《ばせい》とともに、一本の棒がふりかざされた。おそらく、天秤棒か農具の柄だろう。長い、使いこまれてなめらかになったその棒が、伯要の身体の上に風を切りながら落ちてきたのだった。 「わっ!」  恥も外聞もなく、伯要は悲鳴をあげた。さらに身体をねじって、一撃を避けようとした。最初の一撃は、わずかに肩先をかすったが、二撃目は、四つんばいになって逃げる彼の腰をしたたかに叩いた。  思わず、つっぷした彼の上へ、 「思い知ったか、この……!」  さらに三撃目が襲う。  すさまじい力だった。  もともと、文弱《ぶんじゃく》の徒で鍛《きた》えるなどということばとは無縁の伯要だけに、これだけで気が遠くなってしまった。  くたくたと土の上に伸びた彼に気がついて、襲撃者は四撃目の手を、一瞬、止めた。そこへ、 「まずい、人の気配がする」  別の声が重なった。 (では、ひとりではなかったのか。何人かが、しめしあわせて私を待ち伏せし、襲ったということか。だが、待て。声を聞くかぎりでは、連中は士人ではなさそうだ。学問もないただの庶民が、この私を襲うとは——)  愕然となった。 (そんなはずはない。奴らに、私の成していることの意味が理解できるはずがない。これは、きっと背後にだれか、糸を引いている者がいるはずだ。禽不理か、それとも魚氏に縁《ゆかり》の者か、他の重臣たちのさしがねか)  疑心暗鬼ということばがある。  なんでもないことが、自身の心に弱みがあるために大げさに見えたり、不必要に重大に思えたりする。そして、たいていの場合、それは自分自身の行動なり心理なりが、反映しているものだ。  伯要が禽不理の立場で、政敵を排除するとしたら——謀略では生ぬるい。できれば、息の根を止めてしまうのがよい。実際、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の口は封じるつもりだった彼だ。 (私は、殺されかけたのだ——) 「逃げろ」 「車と馬はどうする」 「もらっていこう。俺たちから、こいつが奪っていったもののかわりだ」 「とどめを刺さなくて、いいのか」 「足腰をたたなくしてやったんだ、十分だろう。泥だらけではいつくばっているこいつを見るだけで、溜飲を下げる奴が大勢いる」  声は、少しずつ小さくなっていった。  伯要は、声と気配が完全に消えるまで待ってはいなかった。 (逃げよう)  この国から逃げなければ、生命があぶない。今までは、まさかそこまでとたかをくくっていたが、この調子では一刻を争う。  それに、道の泥にまみれた姿を見られるのは、なによりつらい。  このまま、姿をくらますのが一番だ。  昨夜、自分でも感じたではないか。魚佩は、おのれが仰ぐべき君主ではないと。ならば、自分の方から魚佩を捨ててやろう。  では、逃げるとして、いったいどこへ。  答えは、ひとつしかなかった。 「〈衛〉だ」  さいわい、というべきか、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器がどこへ逃げるにしても、〈衛〉に駆けこむ心配だけはないし、伯要は無影とは初対面ではない。そして、耿無影は、支配者の資質としては魚支吾に近い。  これまでの経緯《けいい》から考えて、頭を下げていくのは業腹だが、それは伯要の覚悟次第だ。耿無影は偏狭な人間だが、能力のある人間を粗略にあつかうことはしないだろう。そして、伯要も、仕える相手に人間味など、求めてはいない。 「〈衛〉へ行こう」  他に行くところはなかった。邸も財産も、未練はなかった。もともと、与えられた以上の物はないし、おのれの才能さえあれば、これぐらいのものはすぐに、ふたたび手に入れられるだろう。  そう決めると、彼の行動は早かった。  痛む腰をかばいながらも、泥で顔が汚れているのをさいわい、上衣を脱ぎ下衣には泥をなすりつけ、さっと庶民風に装った。そのまま、臨城の門を抜けた。  数日後には、ひそかに国境を越え、〈衛〉の国都・瀘丘《ろきゅう》めざしてひたすら歩き続けていた。  彼の逃亡がその日のうちに知れ、間髪をおかず、耿無影が軍を動かそうとは、予想もできないことだった。 [#改ページ]  第三章————————闇の深さ      (一)  新都《しんと》の守備には、先年の秋以来、仇士玉《きゅうしぎょく》があたっている。  仇士玉は、魚支吾《ぎょしご》の妃のひとりの遠い縁者にあたり、家柄も低く、財産もたいしてなかったが、妃の意見によって登用された。  妃が生んだ子が、一時、魚支吾の後継者の候補にあがっており、その側近候補として彼女が人材を集めたのだ。結局、その子は失脚したが、仇士玉は武人としての才を認められ、一軍の指揮をまかされた。  非常の場合とはいえ、三十代で大きな都城の守備についたのは、それなりに力量があったからだ。  その年齢にしては沈着で、独創性はないが、的確に実際的な指示を出していけるという点では、良将の素質があったといえるだろう。実際、平生、対立する間柄の門閥出身の禽不理《きんふり》が、〈琅《ろう》〉を攻める際に、彼に後方をゆだねることには反対しなかった。  むしろいやな顔をしたのは、この新しい城邑《じょうゆう》を、自分の分身のように思っていた漆離伯要《しつりはくよう》の方だった。だが、魚支吾の命令となれば逆らえず、仇士玉の入城を認めるよりほかなかった。  新都は未完成ながら、南北の流通の拠点として、活気を見せはじめていた。臨城が| 政 《まつりごと》の城市なら、新都は商の城邑といってよかった。漆離伯要が、ここにまず太学《たいがく》を設立したために、学の城邑ともいわれるようになっていた。  だが、仇士玉が守備について以来、まず、学生が兵士たちとの接触を嫌い、臨城へひきあげていった。さらに、〈征《せい》〉という国自体が、のんびりと学問をしている状態ではなくなった。あいつぐ戦で、食料が不足がちになってきたのだ。働かずに食べていられるのは、よほど裕福な家の子息たちだけであり、新都の太学の学生はともかく、漆離伯要が設けた私学の弟子たちは門閥や名家とは無縁の者が多かったから、状況が悪くなると、たちまち四散してしまった。  仇士玉が守っている半年の間に、住民は三分の一に減ったという。  城壁の一部に未完成な部分を残していたため、士玉は工事を急がせていた。半年の間に、その壮麗な城壁は完成の域に達していたといっていい。 〈魁《かい》〉の王都・義京《ぎきょう》でさえ、その城壁は土を何層にもつき固めただけもので、外面は日干しの煉瓦《れんが》を積み上げていた。雨の少ない土地柄だから、それでも十分だったのだ。  だが、長い間には煉瓦は崩れ、風雨にさらされて土台の部分までもろくなっていた。強い雨に遭って、自然に崩れた場所もあったのだ。義京の乱の時、段大牙《だんたいが》と赫羅旋《かくらせん》が城壁へ木材をぶつけ、あっさり突きくずしてのけたのは、それを承知の上で、弱い個所に攻撃を集中させたからだった。  新都を設計した漆離伯要は、外壁を被う煉瓦を、堅く焼きしめるようにした。焼いた煉瓦なら、雨にも強い。乾燥にひび割れることも少ない。隙間から植物の種子がはいりこんで、根が壁を割ることも最小限におさえられる。  だが、一城の壁をおおいきる量の煉瓦を焼くためには、すさまじい人手と燃料が必要になった。そのために、外壁はなかなか完成しなかったのだ。  これまでの例からいえば、仇士玉は、特に工事を継続する必要はなかった。城壁の高さはひきついだ時、すでに十分にあり、今までの常識からいえば、あまり手をくわえる必要はなかったのだ。城壁は、人が容易によじ登れなければ、それで十分だ。  だが、仇士玉は、漆離伯要の仕事を続けさせた。伯要に対する義理からではない。ただ、魚支吾が定めたことを、忠実に守っただけだ。  それが、正しかったことを、その朝、仇士玉は城壁の上であらためて感じた。 「〈衛《えい》〉軍です。しかも——」  朝まだき、衛兵の急報をうけて城壁に上った仇士玉は、南の方角にゆらめく旗の群れを見た。  躍《おど》る旗の多くには、「衛」の文字が描かれている。一部、違う文字がまじっているのは、その軍を統括する将の名だ。その中に、 「耿無影《こうむえい》——〈衛〉王自身が、前軍としてきたというのか」 「耿」の文字が、くっきりと浮かび上がる旗を見て、仇士玉はうめいた。  異例の事態ではない。現に、昨年の〈征〉戦では、魚支吾自身が最前線に出ていた。同じころ、耿無影も自身で軍をひきいて〈征〉領に攻めこんできている。  本来、武人でない耿無影が戦場に立つのには、少なからず無理がある。その烈《はげ》しさが、〈衛〉という国を強引にたばね、牽引《けんいん》しているともいえるのだが、逆にいえば、目ぼしい将がいないということでもある。  無影は国を管理・経営する人材を抜擢《ばってき》したり育てたりすることにはすぐに着手したが、武人には関心が薄かった。老練の百来《ひゃくらい》将軍の全面的な支援を得、彼に野心がないと見てとると、軍事はすべて百来にまかせきってしまった。 〈征〉との最前線になる〈鄒《すう》〉の、事実上の支配者に百来を据えると、兵を〈鄒〉に集中的に送りこみさえした。百来がもう少し若く、覇気があったなら、そこから〈衛〉に攻めこむことも考えただろうが、あいにく百来には情勢が見えすぎた。 〈征〉の脅威を背後にかかえていては、〈衛〉とは戦はできない。さらに、仮に無影を逐ったとしても、そのあとの〈衛〉を掌握し、彼以上の良政を布く自信はない。  文武双全の才能の持ち主でなければ——もしくは、才能ある者を参謀として何人かかかえられるのでなければ、一国を守りきることはむずかしい。まして、中原の再統一など、世迷い言にもひとしい夢だ——。  冷静に彼我の力量を判断し、ひたすら無影に忠実に、百来は生きてきたのだった。  今回も、〈鄒〉を通過する無影のために糧食を用意し、兵を編成し、無影にひきわたした。無影は、親衛兵だけをともなって現れ、軍の先頭に立てばよいだけだったから、〈征〉から見れば、信じられないような速さで新都に達することができたのだった。  そればかりではない。 「攻城用の器械をととのえ、後から解体して運んでくるように」  無影は、指示していったのだ。  攻城戦には、大がかりな器械が必要になる。  兵を城壁の上にあげるための梯子《はしご》、上からの落下物を防ぐための盾も要るし、城壁を破壊するための鎚《つち》も、戦法によっては必要になる。  ただの鎚ではない。人よりも巨大なものを、大木を組んだ梃《てこ》の仕掛けで城壁にぶつけるのだ。解体しても巨大な器械を運ぶには、時間も労力もかかる。ために無影は、器械を置いて先を急いだのだ。 「まず、新都の周囲を包囲して、兵と糧食の補給を断つ。城壁を攻めるのは、その後からでよい」 〈鄒〉に百来が在るかぎり、後方からの補給は問題ない。問題は〈征〉が臨城から出す援軍だが、 「〈帯方〉の騒ぎが、おさまっておらぬ。年来の戦で、糧食の備蓄も少なくなっているはずだ。漆離伯要といれかわったばかりの禽不理が、即断で兵を出すとも思えぬ。援兵を出すにしても、時がかかるだろう」  それまでに、器械を据えつけてしまえば、こちらのものだ。 「まず、濠の水を落とせ」  無影の指示も速かった。 「このあたりは、井戸を掘ってもさしてよい水は出ないはずだ。出たとしても、たいした量ではあるまい。おそらく、瑤河《ようが》から濠にひいた水を、城壁のどこかから内部にとりこんでいるのだろう」  外壁の、さらに外にめぐらしてある濠の水源を止めるためには、取り入れ口の川床に杭を打ちこみ、土嚢《どのう》を落としこむしかない。  水がすべてなくなり、底が干上がるまでには、そうとうな時間がかかる。 「その間に、器械が届く。焦る必要はない。この秋から冬にかけて、囲めばいいのだ。春になる頃には、新都は〈衛〉のものになっている」  新都を囲むと同時に、周辺の小邑もすこしずつ支配下にいれていく。年来の戦費の負担にくわえ、ここ半年のあいだに、漆離伯要が税制を混乱させているところだ。〈衛〉本国なみに税を軽減するといえば、むこうから降伏してくるだろう。  無影には自信があった。  むろん、新都に対する示威も忘れてはいない。黙って囲んでいるだけでは、城内の士気は落ちない。仇士玉は城壁の堅固さを恃んで、援軍を待っているのだ。それをおびやかし、防戦で疲れ果てさせる必要がある。気力が続くうちは、抵抗も続くだろう。  絶望させることが、陥落への近道なのだ。  無影は陣頭にたてた戦車の上から、城壁を臨んで命じた。 「小手調べに、矢を射こめ」  城攻めの初歩である。  濠越しに、しかも他の城よりも高い城壁の上へ届かせるのは、至難の技だ。矢勢も弱くなる。 「いくらでも射るがいい。ここまで届かせるのは至難の技だ。たとえ届いたとしても、たいした被害はでないだろう」  城壁上で、仇士玉は笑った。  嘲笑ではない。  無影が、戦の初歩の常識を知らないのだと思ったのだ。  仇士玉の方が、少し年長である。戦の経験も、武人である自分の方が多いと士玉は思っていた。  実際には、両者にさほどの差はない。まして大きな攻城戦となれば、そう何度もあるものではない。示威だけで適当にひきあげたとはいえ、一度、この新都を囲んだことのある無影の方が、周辺の地理や状況を体得しているといってよかった。  城壁の高さも、前回、戦をしている間に、かなり正確に計測している。高さがわかっていれば、矢の飛距離を伸ばす訓練も、前もってできる。  矢は、直線ではなく、放物線を描くものだ。城壁の上の兵を斃《たお》すためには、城壁上の女牆《じょしょう》と呼ばれる障壁の高さより、さらに高く矢を打ち上げ、頭上から落とすことになる。  最初から高い位置にいる城兵の側が有利なのは、いうまでもない。  だから、無影が眼下に弓兵を展開させた時、仇士玉は笑ったまま、何も手を打たなかった。城内の物資は限られているのだ、無駄な矢を射ることはない、と。  だが、その笑顔はすぐに凍りついた。 「なに?」  ばらばらと落ちてきた矢の下で、悲鳴が一斉にあがったのだ。  鮮血が、悲鳴と同時に散る。 「何故——」  あわてて落ちた矢を集めさせて、仇士玉は目を見はった。 「鉄か」  鏃《やじり》はふつう、青銅で作る。手にいれやすく加工しやすい青銅は、その分、殺傷能力にも欠ける。よほど近い距離から、強い力で命中させなければ、一撃で対象を射抜くことはなかなかむずかしい。  仇士玉も、それを見こして静観したのだが、鉄の鏃は青銅よりも鋭かった。青銅の鏃ではかすり傷程度のものが、鉄ではもっと重傷となる。  ただし、青銅とちがい、鉄を加工するには比較にならないほどの火力と技術、それに労力が必要となる。それに、鏃が変わったからといって一撃で人を斃《たお》せるようになるわけではない。  無影は弓も工夫させた。  器械で弦を巻き上げる弩《いしゆみ》は、通常の戦に使われる普通の武器だ。一本ずつ、矢をつがえるそれを、無影は一度に複数、つがえるように改良した。  今のところ、三本が限度だが、それでも矢の量が三倍になる。単純計算では物事ははかれないが、それでも弓手が二倍に増えた程度の効果はあるはずだ。 「なんという男だ」  仇士玉はうめいた。 「なんという国だ、〈衛〉という国は。一刻も早く援軍が来なければ——」  城が陥ちるかもしれないとは、口が裂けてもいえなかった。  将が弱音を吐いた時、士気は一気に落ちるだろう。 「大変なことになる」  むろん、そうなった時には、仇士玉も生きてはいないだろう。  生命を惜しむつもりは、仇士玉にはない。  だが、この新都の守備を命じられた以上、そう簡単に敵の手に渡す気は、さらにない。 「盾を増やせ。正規の盾でなくともよい。家の扉、車の床、厚い板状のものなら、なんでもよい。筵《むしろ》や茣蓙《ござ》、わらの束でも、重ねればないよりはましだろう。新都中から集めるのだ、急げ!」  仇士玉は、部下に口早に命じた。 「援軍は、すぐに来る」  敵影の報告を受けてすぐ、救援を乞う急使を、複数出してある。武人らしい、すばやい判断だった。使者が包囲される前に、脱出したことを、仇士玉は確信している。 「すぐに、あの小憎らしい耿無影は打ち払ってやれる。それまで、気をゆるめるな。なんとしてでも、持ちこたえてみせろ」  仇士玉の判断は、まちがっていなかった。急を告げる使者は、〈衛〉が新都に現れた、その翌日の暮れ方には臨城《りんじょう》に到着していた。  その報告は、漆離伯要の失踪《しっそう》で揺れる〈征〉の朝廷を、さらに混乱に陥れたのだった。 「ただちに、援軍を」  魚佩《ぎょはい》が指示し、多くの臣たちもそれに同調した。が、禽不理は首を縦にふらなかった。  ふれなかったのだ。 「どこに、それだけの兵がございましょう」  ここ半年の間に、一気に増えた白髪頭《しらがあたま》をかすかに伏せながら、禽不理は嘆息した。 「兵は、有るではないか」  と、魚佩は不思議そうな顔をした。  前回の出兵の時に、集められた兵の大部分は、和議となったために帰国、故郷に帰ることを許されたが、それ以前から租税の一環として集められた兵は、臨城や主要な城市、国境などに配備されている。  また、ここのところ〈琅〉との戦の準備のために、漆離伯要が改めて集めた兵が〈容〉へ送られている。  今現在、〈征〉の国内に在って兵役に就いている者の数は、三、四万にはなるはずだ。 「臨城に在る兵だけでも、すぐに出発させれば——」 「数が足りませぬ」  禽不理は、首を横にふった。 「耿無影がひきいてきた兵力は、どう少なく見積もっても三万、さらに〈鄒〉から続々と、後詰めの兵が到着していると申します。臨城とその周辺に常駐しているのは、五千人。近隣の城市の兵を集めても、一万にはなりますまい」  臨戦態勢ならいざ知らず、ひとつの城市に兵を駐留させておくのは、実はたいへんなことなのだ。兵に当たった者は農耕をするわけでなく、何かを作るわけでも商売をするわけでもない。ただ、食べているだけだ。平時に兵を常駐させるためには、彼らを養うだけの余剰力がなければならない。  五千もの兵を、常にかかえていられる臨城は、とびぬけて豊かな都城だったといえる。  だが——。 「一万で、どうやって三万以上の軍に勝てましょう。まして、新都の周辺は平坦な土地で、奇計も使いにくいとなれば、敵以上の大兵力で攻めるのが戦の常道。急いで援軍を派遣しても、少数では彼らを無駄死にさせるのがおちです」 「では、新都を——仇士玉どのを見殺しにせよというのか」  廷臣たちの一部が、いきりたった。  その顔の多くが若い。これは、年齢だけの問題ではなく、彼らもまた仇士玉と同様、門閥のないところから登用された、いわば新興勢力だった。  対して、禽不理は〈征〉の初代から、重臣として仕える名門中の名門の出身であり、彼らの間では、長い間、確執が続いていたのだ。  魚支吾が上から統制していた時期でさえ、その対立は時として、〈征〉を二分する争いに発展した。魚佩になってからは、これがはじめての事態だが、少年には父親ほどの決断力も強引さもない。  この状況で一歩、処理をまちがえれば、〈征〉はここで崩壊するだろう。  身体のどこかに鋭い痛みを感じながら、禽不理はなるべくゆっくりと首をふった。 「そうではない。援軍を送らぬとはいってはおらぬ。どうせ援軍を送るのなら、全力を挙げてかからねば、意味がない、かえって無駄に民が死ぬことになると申しているのだ。ただちに、兵を集めなければならぬ。それは、今、この場ででも陛下に公布していただかねばならぬ。だが、それには時間がかかるのだ」 「だからといって、手をこまねいていては」 「だからといって、今、臨城の兵がひとりもいなくなったら、〈帯方〉がどう出てくるか想像してみるがよい」  相手の口調を真似て、禽不理はいいかえした。 「〈征〉も大変だから、北で騒動を起こすのはやめてやろうとでも、考えると思われるか」  つい、皮肉っぽくなったが、それでその男はいったん引きさがる。 「糧食の手配にも、時間がかかります。この夏の天候はよかったものの、収穫は例年にくらべて減っております。そこから、税の他に、臨時に糧食を徴発するのは、民らにとってはすさまじい負担となるのですから」  むきなおって魚佩にむかって説明することばに、 「民らにとっても、国の大事ではないか。ならば、糧食を出し惜しみするなど、とんでもないことだ。そういう輩には、厳罰でのぞむべきであろう」  ふたたび、別の声で反論が出た。 「そして、この冬、餓死せよといわれるか」  禽不理の声が、とがった。 「まさか、そこまでは——」  反論した男より、魚佩の方が青くなった。 「そんなひどいことには、なるまい」 「いえ、正確な数字はまだ出ておりませぬが、概算からいって、そういう者が出ても不思議はございませぬ。それほど、厳しい状況なのです」 「なぜだ、禽将軍。わが国は、この中原の中でもとりわけ豊かな国ではなかったのか」 「毎年のように兵を動かしていては、こうなるのが当然です。たとえ土地は豊かでも、そこを耕す者がいないのですから」 「父上が戦ばかりしていたから、悪かったとでも申すか」 「いえ——しいて申せば、先君に寿命を与えなかった天に、非がございましょう」  この春、〈琅〉まで征服していれば、今、〈衛〉が攻めこんでくることもなかっただろう。〈琅〉との戦は、けっして勝てないものではなかった。せめて、あと数か月、いや数日でよい、魚支吾が生きていたら——。  繰り言になりかけるのを、禽不理は頭をふることでくい止めた。 「もうひとつ、いまさら申しても仕方がないことですが、この半年の漆離伯要どののやり方が、民の反発をかっております。食物のみならず、諸式が高騰してしまい、武器を整えるのも容易ではありませぬ」  ちなみに、武器・防具の類は徴用された者の負担となる。官給品もないではないが、ごくわずかで、一般の兵に渡るものではない。 「さらに、兵となる者——健康で若い男の数が減っております。たび重なる戦で、負傷した者も多いはず。それでも——」  禽不理は、おのれを奮いたたせるように頭をあげた。 「それでも、戦はしなければなりませぬ。ただ、それは〈征〉という国を守るためではありませぬ。新都にいる、仇士玉どのをはじめとする民を救うために——国として、民への信義を守るために戦をするのです」  この少年に、それだけは知っておいてほしかった。王のために国や民があるのではない。民のために、王がいるのだ。  魚支吾は一代の英雄だった。けっして私欲《しよく》に走ったわけではないことも、禽不理はよく知っている。この中原を、だれかが統一しなければならなかった——それはわかるし、その夢にもっとも近かったのは、たしかに魚支吾だった。  だが、その夢に手をかけるために、どれだけの民が犠牲になったのだろう。もしかしたら、必要以上の数だったかもしれない。覇業が成功していれば、それも報われたといえただろうが。 (志なかばで倒れた時に、すべてが無に帰してしまうやり方では、いけないのだ)  けっして口には出さないし、魚支吾を批判する気もないが、目の前の少年に父親の轍《てつ》を踏ませたくもなかった。 (だれがひきついでも、無理なく実現できるねばり強いやり方でなければ、結局は自国がまず、崩壊してしまうだろう)  禽不理は、ようやくおぼろげながらではあるが、理解しつつあった。 (いまさら、遅すぎるかもしれないが)  それでも、努力だけはするつもりだった。 「兵が集まれば、私がその先頭に立ちましょう。だが、その前に、〈帯方〉と〈琅〉とに使者を送る必要がございます」 「和議が成立、するだろうか」  魚佩もさすがに、むずかしさは知っていた。なにより、今、困っているのは〈征〉なのだ。しかも、早急に決める必要がある。相当な譲歩を、最初から提示しなければ、話し合いにもなるまい。 「おそらく、〈帯方〉に対しては、すべての利権を手離さなければなりますまい」  租税の徴収、兵の徴用、〈征〉に対する臣下の礼、今までのすべてを取り止めて、対等の関係を一から築き直すといわなければ、〈帯方〉の老伯はけっして承知するまい。  だが、それで決着すれば、今回の新都への援兵の数がそれだけ減ってしまう。糧食も武器も物資も、一部だったとはいえ、〈帯方〉の負担していた量はけっして少なくないのだ。 「仕方ございませぬ。背後から襲われるよりは、ずっとましと申すもの。それで、この先、しばらく北方を平穏にたもてるなら、それで良しとするしかございますまい。それより〈琅〉の方が、問題です」 「和議は、将軍がきちんと結んでくれている。いまさら、あらためて結びなおす必要はあるまい」 「先方が和議を、忠実に守らねばならぬ道理は、なにひとつございませぬぞ」 「まさか——」 「いえ、わが国は今、弱みを天下にさらしております。わが国についていても利益がない——もしくは、裏切った方が利があると思えば、〈琅〉は〈衛〉と手を結びましょう。そして、今、わが国が〈琅〉に提示できる条件といえば、〈容〉を渡すことぐらいしかありませぬ。となれば、後にかならず、天下を二分して争う羽目にはなるとわかっていても、当面、共同でわが国を滅ぼし、分けてしまった方が得ということになりましょうな」 「だが、それでは信義が——」 「だれが、それを問いましょうぞ。わが国が滅んでしまえば、それで終わりです。〈魁〉が滅んだ後、いったいだれがその責任を追及したでしょうか」  魚佩の線の細い顔から、すこしずつ血の気がひいていた。目を大きく見張ったその表情を見て、禽不理は胸の痛むのをおぼえた。  この少年のせいではないのだ。  まして、魚佩は死ぬにはまだ若すぎる。東少風も、また同様。 「唯一の救いは、〈琅〉王・藺如白《りんじょはく》もその側近も、物のわかった者たちであること。彼らも〈衛〉の耿無影がどんな漢《おとこ》か、十分すぎるほど知っております。誠意をもって説けば、せめて中立を守ってくれるよう、頼めると存じます。どうか、私に交渉をご一任くださいますよう——」 「禽将軍」  魚佩の両眼が、すこし湿っているように見えたのは、目の錯覚だったろうか。 「孤は、なにも知らぬし出来ぬ。そなたや、重臣たちに頼るより他ない。孤はどうなってもよいから、最善と思われる方法を取ってくれ。頼む」 「もったいない仰せ——」  頭を深く下げながら、禽不理は時代が変わろうとしているのを感じていた。  頭ごなしに、王が強権を以て命令を下す時代では、もうないのかもしれない。まして、自分のような老人が、大きな顔をする時代ではないのかもしれない。耿無影にしろ仇士玉にしろ——〈琅〉に結集した赫羅旋、段大牙にしろ、二十代、三十代の若さである。 「これが最後の仕事のつもりで、全力を挙げてかかることといたしましょうぞ」      (二)  新都が包囲された時、巨鹿関《ころくかん》には廉亜武《れんあぶ》と赫羅旋《かくらせん》がいた。 「東の方角に、なにやら砂ぼこりが立っているような気がするのですが——」  廉亜武が、羅旋にそう告げたのだ。  聞いたとたん、羅旋は実際にそれを見るより早く、 「義京に使者を出してもらいたい。五叟《ごそう》のじいさんが、来ているはずだ。それから、つかまえられるようなら、耿淑夜《こうしゅくや》を」 「承知しました。段大牙どのは、どうします?」 「——いいだろう。青城《せいじょう》での用事がすめば、呼ばなくても、いずれここへ顔を出すことになっている。それでも遅くない」 「わかりました」  平凡な外見と終始おだやかな態度から、凡庸とおもわれがちな廉亜武だが、けっして暗愚《あんぐ》ではない。打てば響くような鋭敏さはないが、必要とされることは的確に理解し、着実にこなせる能力はある。  すぐに、早馬が巨鹿関から出ていった。この距離なら、馬をつぶす気なら半日で義京に着くだろう。 「物見は」 「出してあります——戦でしょうか」 「新都の方角だな。距離も、それぐらいだ」  羅旋は、背丈も身体の幅も厚さも、人よりすぐれている。だが、その体躯でするすると望楼《ぼうろう》の上まで一気に登ってしまう、敏捷《びんしょう》さも備えている。  望楼の上から、実際に自分の目でたしかめて、羅旋は判断を下した。 「物見の報告を待たなければ、断言はできないが、あれはおそらく戦だな。新都が囲まれていると思って、まちがいないだろう」 「いったい——」 「耿無影に決まっているだろう。でなければ、〈征〉で内乱が起きたかだ。内乱だとしたら、漆離伯要に不満をもつ連中か、禽不理に肩入れする奴らが起こすのが筋だが——となると、まず戦場になるのは臨城だ。新都のような辺地で戦をするぐらい、でかい内紛なら、とっくの昔にこちらにも噂ぐらいは飛んできているはずだろう」  と、頭をかきながら、つぶやいた。廉亜武に説明するというよりは、自分の考えを整理するためのようだった。  廉亜武は、それで「なるほど」とうなずいたのだが、羅旋はまだ要領を得ないといった顔つきで、 「それにしても、なんでまた……」  首をひねった。 「新都の重要性を説いていたのは、淑夜ではありませんか。あの若者が考えつくことなら、耿無影が目をつけてもおかしくはないでしょう」  廉亜武が応じると、 「そうじゃない。なぜ、今、無理をして新都を攻める必要があるんだという話だ」  羅旋も、漆離伯要の執政が長く続くとは思っていない。というより、これは淑夜の予測だった。 「漆離どのは、権謀術数をこらすことが、政だと誤解しているような人のようです。でも、公明正大でなければ、人はついていかないものです。当座、目先の欲につられるとしても、長い目で見れば、かならずどこかで無理が出る。民の信用がなくなれば、失脚するしかないでしょうね。今度は、魚支吾がその責任をとってくれるわけではないですから」  淑夜の指摘どおり、伯要は、安邑《あんゆう》にのこった藺季子《りんきし》をそそのかそうとした。その報を聞いた淑夜は、めずらしく皮肉っぽく顔をゆがめて、 「謀略は、成功した時の方がたいへんです。失敗すれば、そのまま口をつぐんでしまえばすむことですが、成功した場合——それが大成功であればあるほど、人々の信頼を失ってしまう。だから、いくら成功してもそれを隠さなければなりません。でも、後ろ暗いところのある為政者を、だれが信用するでしょう。どちらにしても、漆離伯要は、長くないでしょう」  断言してみせたものだ。  ちなみに、藺季子の顛末は、五叟先生こと莫窮奇《ばくきゅうき》から〈琅《ろう》〉王・藺如白《りんじょはく》に細大もらさず報告されている。もっとも、この件を知っているのは如白と、未然にことをふせいだ耿淑夜、それにその直属の上官にあたる羅旋だけである。むろん、漆離伯要の立場を考慮しての処置ではないのは、当然である。 「とにかく、いずれ〈征〉の内部はごたごたしはじめる。それを待って、新都を攻めても遅くないはず——いや、待てよ。まさか」  さすがの羅旋でも、まさか漆離伯要がこれほど早く、すべてを投げ出して失踪してしまうとは想像もしていない。  だが、それに近いことが起きたのだろうという推測だけは、つけることができた。 「思ったより早く、禽不理が勝負に出たかもしれないな。それで、伯要が失脚《しっきゃく》。その混乱に乗じて——おそらく、この筋書きしかあるまい」 「だとしたら、我々はどうすればよろしい」 「守りを堅める以外、何ができる」  望楼がいくら高くても、見える範囲には限界がある。同じ風景をながめていても仕方がないとばかりに、さっさと羅旋は降りにかかる。 「淑夜のいうとおり、こちらも新都が欲しいのはやまやまだが、〈征〉の守備軍に加えて、〈衛〉の大軍を敵にまわして戦を仕掛けるような莫迦がいるとも思えん。〈衛〉が、巨鹿関めがけて攻めてこないよう、おとなしくしているより他、あるまいさ」 「目こぼしをしてくれましょうか」 「新都が陥ちない間は、こちらが仕掛けなければ、無影も何もするまい。目の前の戦で、手一杯だろうからな。だが——」  茫洋とした表情が、ここではじめてひきしまった。 「例の仕掛けは、いつでも動かせるよう点検しておいた方がいいな。この調子では、思ったより早く新都が陥ちる可能性がある」  翌日、巨鹿関へあらわれた淑夜も、同じ意見だった。  五叟老人を超光《ちょうこう》のうしろに乗せて、飛び出してきたのだ。  そのころには、谷の入口まで出していた物見ももどってきた。〈衛〉軍が新都を囲んでいるという報告を聞いて、 「詳しいことはわかりませんが、〈征〉の内部で、なにかあったことは確かでしょうね。ここは、事情がはっきりとわかるまでは、静観するしかないでしょう」  ほぼ、同時期に巨鹿関へまわってきた段大牙もまた、 「耿無影と正面きって戦をするなら、俺は降りるぞ」 「そんなことをいって、以前、無影の戦車に直接、矢を射込んだのは、どなたでした」  淑夜にからかわれても、 「だからじゃないか。たったあれだけのことで、数年もの間、恨まれつづけていたんだぞ、俺は。あの執念深さには、うんざりした。二度と、奴の恨みをかうのはまっぴらだ」  渋い顔をして、すぐに望楼から降りてしまった。 「陛下のおられる百花谷関《ひゃっかこくかん》と、羊角《ようかく》将軍の在る曲邑《きょくゆう》とから、義京《ぎきょう》へ鳩を飛ばしてみる約束になっておる。ことによったら、そちらの方から詳報がはいるかもしれぬぞ」  最後に、五叟老人がしめくくった。 「要するに、相手の出方待ちというわけじゃな。とすると、儂らがここに長居をしていても無駄じゃ。儂はいったん、義京へもどるが、そなたはどうする、淑夜」  五叟老人は、すこし含みのある言い方をしたが、 「とりたてて、することがなければ、義京の方にも用事を残していますし、もどります。大牙は、どうします」  淑夜は、知らぬ顔をして、大牙に話をふった。大牙は、めずらしくむずかしい顔をして、 「どうするといって……俺は、なおさらすることがない。親父たちの葬儀のための帰郷だったわけだが、それも無事にすんだし、この後の命令を聞きにここへ寄ったんだが」 「〈奎《けい》〉の兵は、戦車が主だ。ここにいてもあまり出番はなかろう。とりあえず、百花谷関の如白——陛下の麾下《きか》にはいってもらおうと思っているが」  羅旋が告げたとたんに、 「俺は、おまえの部下だぞ。如白どのの命令に従えというのは、筋ちがいじゃないのか」  彼は、即座に反駁《はんばく》した。  もっとも、大牙にしては口調はおだやかで、とりあえず抗議の姿勢だけを示したといった印象だった。  大牙自身が馬に乗るようになって、彼も戦車での戦の限界に気づいたのだ。広い、平坦な土地でならいざ知らず、巨鹿関のように狭い地形では、戦車は多数あっても展開できず、行動もしにくい。  大牙は、ここのところ、妻となった玻理《はり》とともに馬で移動するのが通例となったが、麾下の冀小狛《きしょうはく》をはじめ、まだまだ馬に抵抗を感じる者は多かった。むしろ、車に乗る甲士《こうし》たちより、兵卒たちの方が馬に興味を持ち、習おうとする者もちらほらと出てきているが、その数はまだ、多いとはいえない。  形としては羅旋の下の将の立場だが、本来、一国の国主でもあった大牙は、如白からも別格のあつかいをされている。いざという時には、如白の命令に従う——というより、要請を受けて、遊撃部隊として動くことになるだろう。  そのあたりのおのれの役割は、いちいち説明されなくても理解できる大牙である。ただ、はるか後方に回されることに対する不満は、否めなかった。だから、一応、文句だけはいったが、 「やはり苳児《とうじ》をいったん安邑《あんゆう》へもどすことにした。義京《ぎきょう》も青城《せいじょう》も、住むにはよい土地だが、まだ安全とはいいがたいからな」 「そういえば、玉公主《ぎょくこうしゅ》さまは、どうなさるおつもりですか」  不意に、廉亜武《れんあぶ》が口にしたことばに、なぜか淑夜があわててふりむいた。 「どうされる、とは?」 「いや、巨鹿関がきなくさくなってきましたから、安邑か、せめて百花谷関までもどられた方がいいのでは」 「——勧《すす》めてみますが、どうお答えになるか。衷王陛下の改葬は、まだ終わっていませんし、こちらがあれこれと指図はできませんから」  困ったように首をすこしかしげながら、淑夜は答えた。その視線が、微妙に人を避けているのを見逃すような羅旋たちではない。  淑夜が馬の準備のために姿を消すと同時に、 「——おい」  まず、大牙が羅旋のわき腹をこづいた。 「どう思う?」 「けっこうなことじゃないか。俺は、ずっと以前から似合いだと思っていた」 「虚言《うそ》をつけ」  大牙は、うさんくさそうな目で、古い友人を見た。 「それに、そんなに簡単なことじゃないぞ。なんといっても、相手は——」 「おそらく、如白は反対しないだろう。それに、身分云々の問題をおまえに言われたくはないが」  羅旋は、皮肉っぽく笑った。  大牙は青城へ連れていった配下たちを先に義京へ向かわせたが、妻の玻理だけは巨鹿関《ころくかん》へ同道している。何ごともなく〈魁《かい》〉が存在していれば、〈奎〉の公子——やがて〈奎〉伯になったはずの大牙と、戎《じゅう》族の女の玻理とは、絶対に結ばれない縁だった。  いくら国を失い、王位から降りたとはいえ、それなりの身分のある大牙が玻理を連れて中原にもどった時、冀小狛をはじめとする元の臣たちは、ひややかな態度をみせたものだ。  玻理は、戎族の女らしく、大牙のかたわらでともに戦うことで、どうやら冀小狛らの承認を獲得してみせた。むろん、妻の件に関してはけっして譲歩しなかった大牙の、意志と誠意の賜物《たまもの》でもある。  身分と種族の差をのりこえてみせた大牙が、淑夜と玉公主・揺珠《ようしゅ》との「身分ちがいの恋」には難色を示すのかと、羅旋は笑ったのだ。 「それとも、妬《や》けるか」 「揺珠どのへの気持ちは、妹に対するものだった。それ以上の感情は——今思うと、なかったような気がする。俺には、玻理のように、ひとりでも生きていけるような女の方が、向いているさ」 「——のろけに聞こえるぞ。それに、今の揺珠どのはなかなか、おとなしいだけの姫君ではないようだが」 「おまえこそ、いいのか。羅旋」 「何が」 「如白どのには、実子がいない。嗣子《しし》も指定されていない。義子の筆頭であり、五相のひとりであるおまえが、王の姪女である揺珠どのを娶れば、〈琅〉に於ける地位は磐石《ばんじゃく》になる。次期の——」 「段大牙」  低いが、きびしい制止が飛んだ。声に形があれば、その切っ先は大牙ののど元を裂いていっただろう。それほど、気迫のこもった声だった。  羅旋の、特徴的な緑色の目が、異様な光を放っていた。 「口にしていいことと、悪いことがあるぞ」 「俺はただ、可能性をいっているだけだ」 「揺珠どのを、ふたたび政略の道具に使う可能性か」 「——いや、それは」  さすがに、大牙も顔色をあらためる。 「そんな気はなかった。つい、口がすべった」 「二度と、口にはするな。耳に入って、一番苦しむのは揺珠どのだろう。おそらく、淑夜もな」  大牙が素直にあやまるのを見て、羅旋もすぐに態度をやわらげた。 「それに、俺は王なんぞという面倒なものになる気はない。今でさえ、おまえらの責任をおしつけられて、たいへんな思いをしてるんだぞ。これ以上、他の連中の面倒までは見切れない。如白どのになにかあれば、藺季子か、それとも最年長の羊角どのが継げばいいんだ」 「年齢からいって、如白どのが亡くなるころには、羊将軍もいないと思うが——」 「わからんぞ、あの御仁《ごじん》は。下手をすると、俺たちより長生きするかもしれんからな」 「ま、覚悟だけはしておこう」  大牙は軽く肩をすくめると、片手をあげた。行く手から、紅い衣を着けた人物が、馬を二頭引いてやって来るのを見たのだ。 「玻理」 「準備はできたよ」  艶やかな髪を、ゆるやかに編みおろした娘が、かすかな微笑をうかべながら告げた。 「淑夜たちは」 「いつでもいい」 「よし、行くか」  玻理に合図をして、大牙は馬上の人となった。 「再度、物見は出してある。詳しい報告がはいり次第、義京と百花谷関と、両方に使者を出す」 「わかった。必要となれば、中途からでもひきかえしてくる。覚悟はしているから、いつでも遠慮なく呼んでくれ」  むしろ、すぐ戦になるのを期待しているような顔つきで、大牙は答えると、そのまま馬の首をめぐらした。  すぐあとを、玻理の馬が追う。見おくっていると、横あいから、騅《あしげ》の馬がとびだしてきて、二騎のあとを追った。  騅の背には、人影がふたつ乗っているのも、見えた。 「五叟のじいさんにも、馬を教えておくべきだったかな」  羅旋がすこし首をかしげながらつぶやくのを聞いたのは、廉亜武だけだった。  結局、段大牙は義京で自軍とおちあうと、百花谷関までまっすぐに来た。たとえ、巨鹿関で異変があったとしても、戦車主体の自分の軍が必要とされ、呼びかえされる可能性は少ないと知っていたが、それでも大牙はすこし不服顔だった。  さらに揺珠を義京にひとり残してきてしまったのも、不安材料のひとつだった。  ひとりとはいっても、侍女たちはついているし、義京を管轄《かんかつ》しているのは耿淑夜だ。彼なら、万一のことがあっても、彼女だけは無事に逃れられるよう万全の策をとるだろう。  だが、義京の乱を経験した身としては、義京という場所自体に不吉なものを感じてしまうのだ。  呪詛《じゅそ》だとか怨念《おんねん》だとか、不可解なものを武人の大牙は信じてはいない。だが、義京がいやな記憶のまつわる土地であることは事実だし、巨鹿関が陥ちればたちまち逃げまどわなければならないことも確かだ。 (羅旋が巨鹿関にいれば、めったなことはないだろうが) 「叔父上さま、ご心配ごとですか?」  少女の声に、大牙は苦笑して顔をあげた。 「なんでもない、苳児《とうじ》。急ぐ旅ばかりで疲れただろう。もうすぐ、百花谷関に着く。そうしたら、本営でしばらく休んでから安邑へはゆっくりともどればいい」 「いえ、わたくしは疲れてはいません。でも、叔父上さまは、もうすこし義京におられた方がよかったような気がするものですから」  黒髪は両耳の上でふっさりと結った童髪だが、この少女もここ一、二年の間にすっかり大人びてきている。二、三歳年上のはずの侍女、茱萸《しゅゆ》の方がずっと無邪気で子供じみているぐらいだ。  戎族の少女は、道中、ずっと馬で通していたが、苳児はさすがに天蓋《てんがい》のある馬車に乗っている。その馬車の窓にかかった紗幕《しゃまく》をすこし掲げて、苳児はかたわらを行く叔父に声をかけたのだ。 「なにか、予感でもするのか」  大牙が真面目な顔でたずねたのは、苳児は幼い時から勘がするどく、予言めいたことを口にするからだ。親や肉親の縁に薄い彼女は、その分、なにかを感じとる力が鋭くなったのかもしれない。  具体的なことは、苳児にもわからないらしい。だが、大牙は彼女の勘を大切にしていた。 「引きかえした方がいいのか。義京でなにか——それとも、巨鹿関で戦が起きたか」 「いえ、東にはなにも、感じません。でも、西で何か、たいへんなことが起きそうな気がするの」 「ふむ。危険か」 「叔父上さまには、危害は及びませんでしょう。でも……面倒なことには巻きこまれますわ」 「今までも、十分面倒なことには巻きこまれてきたさ」  大牙が目で笑うと、 「そうですわね。叔父上さまなら、大丈夫。かえって物事をご自分のお好きな方へ、導いていけるかもしれません」  苳児も黒髪を揺らして、笑いかえした。  わが姪ながら、なんといういいぐさだと大牙は苦笑して、それでいったん、そのやりとりは忘れてしまった。  正直にいえば、百花谷関からその先にかけては、大牙にはけっしていい思い出がない。義京の乱の時、亡国のみじめさをかかえながら、決死の覚悟で駆けぬけた場所だからだ。  百花谷関を出たところは、〈琅〉と〈衛〉の国境があいまいになっている地帯で、先年、逃亡中の大牙の一行は、ここで待ち伏せしていた〈衛〉の百来の軍に襲撃された。羅旋と淑夜が襲撃を前もって予測し、おとりの役目をひきうけてくれなかったら、ここで大牙の生命もおわっていたかもしれない。  さすがに、〈衛〉との国境とはかなり離れた、平坦《へいたん》な草原を選んで、〈琅〉王・藺如白の軍は駐留していた。  草原の種族の血を色濃くひく〈琅〉の軍は、野宿も苦にはならない。訓練を兼ねた狩りに出て、何日も天幕暮らしをすることもある。〈琅〉の人間の多くが、城市でも天幕でも、星を天蓋《てんがい》にしても、同じように生活できるのが強みだった。  しかも、彼らは水さえ調達できれば、食料は狩猟でなんとかしてしまう。すべてをまかなえるわけではないが、中原の国の軍よりは少量ですんでしまうのだ。  同心円状に配置した天幕群のほぼ中央に、ひときわ大きな如白の天幕はあった。 「巨鹿関の奪回、まことに見事だった。功《こう》には、厚く報いたいと思っている。旅先で何もないが、とにかくまず、ゆっくりと休んでいただきたい」  下にも置かぬ扱いとは、こういうことをいうのだろう。さすがに上座は如白が占めたが、床の敷物の上に、さらにひとり用の敷物が用意されていた。むろん、剣は携帯したままである。  ちょうど、曲邑から単身、一時もどってきたという方子蘇《ほうしそ》が同席したが、天幕の中には警備兵などは立ち入らせなかった。  警備がおどろくほど少ないのは、この草原では不審な者が近づいても、すぐにわかるからだ。〈奎〉軍の兵たちにも十分なだけの宿舎がすぐに設営されたが、特に監視されているような気配もない。  大牙の天幕は、如白の天幕からはかなり離れた——それでいて警備がいきとどくような場所を選んで設営されていた。苳児専用の天幕も、小さなものだが大牙の天幕の隣に用意されていて、大牙がよけいな気を使わずにすむような、最大の配慮がされていた。 「その、巨鹿関の件ですが——」  大牙が報告をしかけると、 「それなら聞いている」  如白は、片手をかるく挙げて制止した。 「え?」  と大牙は、めんくらった。どこかに誤解があるのではないかと思ったのだ。巨鹿関から百花谷関にむけて、早馬は出されていない。それならば、どこかで追い抜かれたはずだ。また、この間を飛ぶ鳩もまだ、訓練されていないはずだ。  ちなみに鳩の使いは、巣に帰る本能を利用しているから、一方方向にしか使えない。たとえば安邑に向けてなら、どこからでも鳩は飛ばせるが、その逆は今のところ無理だ。百花谷関へむけて鳩を飛ばすなら、新たな鳥を訓練しなければならない。  大牙の顔を見て、 「巨鹿関から、安邑へ鳩の報告が届いたのだよ。安邑からここまでは、馬ですぐだ」  如白は笑いながら、すぐに種明かしをした。 「やはり、〈征〉では漆離伯要が失脚し、禽不理が宰相に返り咲いたのだそうだ。事情は、まだよくわからぬが、漆離伯要はもともと憎まれていたからな。臨城から姿を消して、まだ行方はわからぬそうだ」 「それで、新都の戦の方は」 「まだ緒戦《ちょせん》だ。耿無影は、事をあせる漢《おとこ》ではないし、新都もそう簡単に陥ちるような城市ではないだろう。持ちこたえているうちに、〈征〉も援軍を出すだろうさ」 「では、まだ援軍の用意もないのですか、〈征〉は」 「今、〈容〉の国境をがら空きにされたら、いくら儂が人がよくても、攻めこみたい誘惑にはかられるよ。儂が思いつかなくとも、羊角や羅旋という戦功者《いくさごうしゃ》がいくらでもいる」  如白は、微笑を絶やさない。 「ゆえに、今、曲邑へ使者がきている。先年の和議の事項を確認し、今われらがいる場所から動いてくれるなと、頼むためにな」  そういいながら、方子蘇の方を見た。  つまり、その使者の意を伝え、如白の指示をあおぐために、彼がもどってきたのだろう。  あまり大牙とはなじみのない方子蘇は、大牙の視線に表情を変えずに、かるく会釈してみせた。  仕方ないこととはいえ、自分の知らないところで事態が動いていることを知るのは、あまり愉快なことではない。もっとも、人に仕えるということは、そういうことなのだという自覚と自制は、大牙にもあった。人を動かすのではない、人に動かされる人間が、情報を最初に握る必要はないわけだ。  大牙を救ったのは、如白という人物がどこか茫洋としていて、王となっても権威ぶる気配も見せないことだった。なりゆきで王になってしまったために、仕方なくその役割をはたしている、そんな人の良さがほの見えるために、大牙もまた、臣下という役割を演じてみせればよかったからだ。 「今、羊角将軍が、交渉にあたっている」  如白は、大牙の表情の微妙な変化を楽しんでいるようだった。けっして、悪意ではない。しいていえば、後事を託すべき者の器量を推しはかっているといった表情だった。 「どうなさるおつもりです」 「こちらとしては、もともと、戦をする気はなかった。〈征〉が動きを見せるから、それに対応したまでだ。〈征〉の事情が変わって、下手に出てくるなら、それに応じても問題はない。まして、相手が禽不理将軍なら、信用ができる。相手の不利につけこんで、無理な要求を出すつもりもない。今のところ、領土をこれ以上広げても、管理する人手もないことだしな」 「では、ここまで出てこられたのは、無駄足でしたね」 「無駄でもいい。とりあえず、戦が回避できるなら、それでよい」 「では、和議が確認されれば、軍を引かれますか」 「義京と巨鹿関を、孤立させるわけにはいかないだろう。遷都《せんと》の件は、口実ではなく、本気で考えていることだ。一度、義京のようすは見にいかなければなるまい——ただ、今、安易に東へ動くと、あらぬ疑いを招く。だからといって、安邑へもどって出直すのも面倒だ。当分、ここでようすを見るしかなさそうだ」 「同感です」 「大牙どのは、天幕暮らしは平気か」 「一年も暮らしていれば」 「そうだった」  苦笑が交錯した。 「ただ、配下の者たちは、不平を申すかもしれません。なるべく押さえますが」 「血の気の多い者たちだからな。儂も、注意しておこう」  如白と大牙の会見は、さらに苳児を安邑にもどすための手はずを打ち合わせて、終わった。 「どうも、俺はやはり、王なんぞという柄じゃなかったようだ」  天幕で待っていた玻理や冀小狛に、大牙は苦笑まじりに告げたものだ。 「戦は、できるだけ回避するのが、王としてのつとめだ。俺は仕方がなかったこととはいえ、何度か戦を仕掛けている。しかも、負けているからな」 「勝敗は、時の運と申します」 「下手になぐさめてくれるな。俺はつまるところ、ただの戦好きだったのかもしれない」 「それをいうなら、大牙、あなただけじゃない。羅旋もそうだ」  おかしそうに、玻理が笑った。 「あたしは会ったことはないけれど、〈衛〉王もおなじ、前の〈征〉王もおなじ。あたしにいわせてもらえば、漢たちはみんな、戦好きだ」 「まいったな」  大牙と冀小狛は、思わず顔を見あわせた。 「そうではないとはいわないが——玻理、おまえだって、戦には出るじゃないか」  玻理の機嫌が悪くなることは承知の上で、敢えて、大牙は抗弁した。玻理は、表情を変えず、 「あたしは戎族だもの。中原の女たちは、何もできないから、みんな、男たちが戦に出ていくのを見送るばかり、待っているばかりだけれど、戎族の女は馬に乗れる。弓も使える。だから、待っていないで一緒に行く。男たちが死んだという知らせを待っているよりは、一緒に戦った方がましだから。でも、好きで戦うんじゃない。大事な人を——父や兄弟や夫、それに子どもを守るために戦に出るだけ」  玻理がこれだけ長く、しかも熱を帯びて話すのはめずらしい。しかも、懸命に大牙の方を見つめながらの熱弁に、冀小狛の視線も意識したか、大牙もめずらしく面映《おもは》ゆい表情をした。うつむきかけて、 「なに?」  突然、顔をいきおいよくあげたもので、冀小狛の肩のあたりが、かるく跳ね上がった。 「ど、どうなさった」 「玻理、今、なんといった?」 「なんとといって——」  玻理は答えず、冀小狛がとまどった表情のまま、先の言葉を反芻《はんすう》していた。 「玻理、おまえ、まさかとは思うが」  彼女の、ふとしたしぐさが、彼の目に止まったのだ。 「ですから、どうされたのじゃ、大牙さま。玻理どの、いったい何を」  だが、こうなると大牙も玻理も、冀小狛のことばなどは耳にはいっていない。 「そうなのか」  これまためずらしく、玻理が無言のまま、かすかにうなずいた。恥じらうような仕草に、おやと、冀小狛が思うより早く、 「莫迦者《ばかもの》、なんで、もっと早くいわない!」  大牙の罵声が飛んだ。 「大牙さま!」  その勢いのすさまじさに、手をあげるのではないかと心配した冀小狛が、理由はまだわからないままながら、大牙の右腕にとりついて押さえた。が、大牙はその前に、自制している。 「なぜ、早くいわなかった。いえば、青城か義京あたりでもう少しとどまっていた。場合によっては、おまえひとり、残ってもよかったのに」 「だから、いわなかった」 「莫迦者、その間に何事かあったら、どうするつもりだ」 「あたしは、戎族だといったはず。戎族の女は、こんなことぐらいでは、びくともしない」 「万が一のことをいっているんだ。玻理、苳児と一緒に、安邑へもどれ」 「いや。あたしはここにいる」 「いつ、戦になるか、わからないのだぞ」 「まだ、当分、起きる気づかいはない」 「だめだ」 「あっ」  大牙と玻理の主張が平行線になったところで、突然、頓狂《とんきょう》な声がわりこんだ。 「もしや、大牙さま」 「なんだ、今時分、気がついたのか」  大牙が、自分のことは棚にあげて、あきれた顔をした。 「もしや、お子が」 「——そう、あからさまにいうな」  玻理を気づかって、大牙がとがめたが、冀小狛はなおもいきおいこんで、 「いつになりますか、お生まれは」 「俺に聞くな。俺もさっき、聞かされたばかりだ。おまえが聞いた以上のことは、何も知らん」 「これは——失礼いたしました」  ようやく、冀小狛は気がついた。夫婦間の話に、わりこんでいるのだ。 「私はこれで退散いたします。ただ、明日にも〈奎〉から従ってきました者らに、お知らせくださいますよう。世子の誕生と聞けば、皆、どれだけ喜びますことか」  口早にいうだけいって、冀小狛は天幕の入口の垂れ幕を跳ね上げるように出ていった。 「世継《よつぎ》といって——まだ、男か女かもわからんのに」  これで、大牙も玻理も、毒気を抜かれたかたちになった。口論がそこでひとまず、途絶えたのは、冀小狛の手柄といってもよいだろう。 「——おまえのいうとおりだ。とにかく、すぐには戦にはなるまい。しばらくは、ここで待機ということになるだろう。いざ、動くとなってから、おまえの去就《きょしゅう》を決めてもいいだろう」  玻理の意志が強いことは、よく承知している大牙だった。  とりあえず譲歩して、少しずつ説得をするつもりで、引き下がることにした。 「羅旋たちにも、知らせておくべきだろうな。その上で、知恵を借りることもできるかもしれん」  だが、決断はその夜のうちに、彼自身がくださなければならなかったのだ。      (三)  その夜、百花谷関外の〈琅〉の陣営の、警備が手うすになっていたのは、事実だった。もともと、ここは現在進行中の争乱の地とは遠く離れており、近在には敵といえる勢力は皆無だった。  たしかに、大牙のひきいてきた旧〈奎〉軍が加わって、いつになく騒然《そうぜん》としていたこともあるだろう。〈琅〉軍と、旧〈奎〉軍とはあまり接触がなく、知らない顔が多かったこともたしかだが、一国の軍の兵は何万何千といるのだ。そのすべてを、全員が知っているはずがない。見知らぬ人間が混じっていれば、当然、誰何《すいか》し、身許を確かめている。ただ、どうしても陣営全体に、集中力を欠いていたことは否めない。  侵入者は、天幕の陰や篝火《かがりび》のとどかぬ個所を縫い、人の目を避けて陣中深くにはいりこんだ。  偶然に偶然がかさなったこともある。  その夜は月も星もなかった。わずかに風が吹いていて、もともと敏捷《びんしょう》でもない彼の足音や気配を消した。  そもそも、侵入者は藺如白の顔も知らなかったのだ。如白がその夜、天幕の外へ出なければ、目標をさがして右往左往したあげく、捕らえられていただろう。  その夜、如白の天幕には、方子蘇《ほうしそ》が長い間残っていた。曲邑での〈征〉との交渉の方針と、今後の方策を話し合っていたのだ。途中、夕食を共にしていたから、さらに話は長くなった。 「羊角《ようかく》どのは、年齢の功といいましょうか、まず人に言質《げんち》をとられたり、つけこまれるようなことはありません。あらかたの方針を示していただければ、後は臨機応変、任せられても問題はないかと思います」 「それは信用している。問題は、巨鹿関の守りをどうするかだな」 「廉亜武どのでは、ご心配ですか。羅旋にあずけておくよりは、まだ安心かと思いますが」 「たしかに。羅旋を信頼していないわけではないが、あの男、何を考え出すか、いつ突然動きだすかわかったものではないからな。配下も、一将軍としては充実しすぎてきたきらいもある」 「その嫌疑を避けるためでしょうか、段大牙どのをこちらへよこしたのは」 「それもあるだろうな。頭のよい男だ。敵に回すのはやっかいだが、臣下にかかえておくのも、正直、大きすぎる」 「陛下がそのようなことをいわれては」 「いっそ羅旋を王にして、儂が臣下になるというのはどうだ。その方がずっと気楽だ」 「冗談ではありませんぞ」  生真面目な方子蘇は、本気であわてた。如白は笑って話を逸《そ》らせたが、その口調には冗談ばかりではないといった感じがあった。  夜も更けて、衛兵が交替する気配に、方子蘇はようやく腰をあげた。 「申しわけありません。長居しすぎました」 「別に、明朝、急いで出発するわけでもあるまい。とはいえ、少し遅すぎるな。ゆっくりと休んでくれ」 「ついでに、大牙どのの天幕のあたりも見回ってから、もどります」 「そうしてくれ」  天幕の垂れ幕を、自分から掲げて方子蘇を通してやる気さくさが、如白の身上《しんじょう》だった。それに対して、 「や、これは、陛下みずから。恐縮です」  かしこまって礼を執った方子蘇の仕草も、いつものとおり、自然なものだった。  天幕の陰で、ぴくりと聞き耳をたてた者の存在に気づいた者は、皆無だった。皆、天幕を出てきた如白の方に、注意をひかれていたのだ。 「では、陛下。早くお休みください」 「まったく、面倒なことだな、王という仕事は」  苦笑する長身の漢《おとこ》に、物陰の人影の視線がこらされる。掲げられた灯りの中で、漢の髪や髯《ひげ》が、きわだって赤く映えた。周囲の者たちと比べてみれば、彼の髪と髯が茶色いことがわかる。 「では」  方子蘇が生真面目な礼をして、背を向けて歩き出す。その方向へ、その場の全員の視線が動く。  と、同時に——。 「思い知ったか!」  絶叫とともに、地面近くを巨大なねずみのような黒い影が這った。  それは一瞬のことで、止めようがなかったとだれもが後に語ったが、実は影はそれほど凄まじい速度だったわけではない。ただ、だれもがその時、目の前で何が起きているのか、理解できなかったのだ。  ふりむいた時、如白の髯が赤く染まっているのを、方子蘇は見た。その赤い色が、如白の胸からわき腹にかけての衣服に広がっているのも、見ることができた。  最初は、灯火の影が濃く落ちているのかと思った。  だが、その赤い影が足もとに数滴、したたり落ちたのだ。そして、赤い染みのあたりには、禍禍《まがまが》しい丸い黒い影がしがみついている。 「見ろ、儂はやってのけたぞ。見たか、伯要め、思い知ったか」  黒い影が、なにやらぶつぶつと呪文のように唱えながら、如白の左わき腹を二度、三度と突いていた。  そのあたりに、白く光る刃物をみとめた方子蘇は、全身の血が一度に逆流するのを感じた。 「陛下っ!」  むろん、如白もただ、刺されるままになってはいない。方子蘇が絶叫した時には、体勢を入れかえ、影の五撃目か六撃目かをかわしていた。  だが、それがやっとだった。  最初の一撃が、思った以上に深かったのだ。斜め後ろからの攻撃も、不利だった。  足がもつれた。  情けないほどあっけなく、如白の身体は草の上にどう、と倒れた。 「陛下——」  方子蘇がまず、如白に駆けよった。抱き起こした手に、鮮血がこびりついた。  戦に慣れた武人とはいえ、この場合の方子蘇らの狼狽《ろうばい》を非難するのは酷《こく》というものだろう。一瞬、たじろいだ隙に、刺客はぱっとその場から逃げ出してしまった。 「何をしている、追えっ!」  方子蘇の絶叫が、さらに続く。 「医者を。太医《たいい》を呼べ。早く、一刻も早くだ!」  周囲は、大混乱におちいった。  駆けよる者、天幕から飛び出してくる者、逃げた刺客を求めて走り去る者。  方子蘇と、あと数人の手が如白の身体を天幕の中にもどした。 「血止めを——」  戦で幾人もの負傷者の手当をして来た手が、震えながら衣服を引き裂き、傷口を改めていた。  ——大牙が聞きつけたのは、おそらく最初の方子蘇の叫びだったはずだ。まだ、彼は眠っていなかった。  かたわらに置いていた剣を取ると、垂れ幕を突き破るように外へ出た。隣から茱萸《しゅゆ》の顔がのぞいたのを、 「中にいろ。絶対に苳児《とうじ》のそばを離れるな」  厳しく叱りつけておいて、声の方角をさぐった。そこへ二度目の声、そして、ざわざわと雲がわきあがるように、灯火が増え、人の怒号と動きが高まっていく。 「本営の——あれは、陛下の天幕の方角では」  冀小狛《きしょうはく》が、上衣を着こみながら大牙の隣に立つ。 「何が、いったい」 「叱《し》っ!」  大牙の口から、鋭い摩擦《まさつ》音が出たかと思うと、剣がすらりと抜き放たれた。 「だれか、来る!」  いつのまに出てきていたのか、玻理が声をひそめてささやいた。 「大牙、気をつけて。すぐ、そこ!」  戎族の彼女は、羅旋ほどではないが夜目がきく。気配も、鋭く感じとる。 「わかっている」  というや、大牙は剣を右手に下げた姿勢のまま、自分の天幕の陰に身をひそめた。冀小狛も玻理も、無言でそれに倣う。  前方から、入り乱れた足音が向かってくるのがわかった。その中で、真っ先に走ってくるのは、どちらかといえば鈍重そうな音だ。  逃げる方向を迷っているらしい。多少、右往左往しながらも、確実に大牙たちの方へむかってきているのは、おそらく灯火の少ない場所を選んでいるのだろう。  その足音が、まさに大牙たちのひそむ天幕のすぐ脇を、通りすぎようとしたのだ。大牙はこんな時だというのに、思わずにやりと舌なめずりしてしまった。  後は、簡単だった。  闇に慣れた目で底をすかすようにしながら、呼吸をはかり、ひょいと足を突き出すだけでよかった。 「わっ!」  魂切るような、かん高い悲鳴とともに、どさりと巨大なものが転倒した。その上へ、冀小狛がすかさずおおいかぶさる。 「は、放せ! 放すのじゃ!」 「冀小狛、脚だ、脚をおさえろ!」 「そんなことをいわれても、こやつ、えらく太っておりまして——」 「ええい、おとなしくしろ!」  大牙は剣を持ちかえるや、男の頭とおぼしきあたりへつきたてた。  今一度、女の悲鳴より情けない声があがる。 「心配するな。殺す気はない」  そのことばどおり、大牙の剣は男の顔すれすれのところをかすって、大地に刺さっていた。  これで失神寸前になった男の、まず脚を、冀小狛がすばやく、剣の下げ緒でくくってしまう。その間に、大牙が男の腕を背中に回して、とりあえずしばりあげた。そこへ、 「段大牙どの——捕らえてくださったか」 〈琅〉の兵士たちがかけつけた。 「おう、捕まえることは捕まえたが——いったい、何事だ」 「実は、陛下が——」  兵卒の長が、すこしためらったが、 「陛下が刺されました」 「容体は」 「今、手当を。息は、おありです」 「で、この男が下手人か」  兵士たちの持つ松明《たいまつ》で照らし出した男は、太り肉《じし》で、上目づかいをする中年男だった。敏捷さも冷徹さもない、しかも泥だらけの情けない姿に、 「これが、刺客?」  と、大牙たちだけでなく、全員が一応、目を疑ったのだが、 「衣服に、相当量の血がついております。おそらく返り血でしょう。大牙さま、御身の手にも」  しばりあげた時についたのだろう。ぬるぬるとした感触を、不思議に思っていたのだが、実際、目で確認して大牙は嫌な顔をした。あわてて、とらえた男の背で手をぬぐう。 「しかし、こんな奴がどうして。何者だ」  と、あらためて見直して、彼は、相手の顔にどことなく見おぼえがあることに気がついた。 「——以前より、人相が、相当悪くなっているが」 「ひ——」  相手も、大牙の顔をみとめて、喉の奥でひからびた声を出した。 「ご存知の方ですか」 「お久しぶりですな、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》どの」  あっと、冀小狛が背後で、思い出したような声をたてた。 「おまえ、段、大牙——」 「何年ぶりでしょうな。貴殿が〈容〉の国主にとりいって、俺から玉璽《ぎょくじ》をとりあげようと図って、失敗した時以来だから、あれは——」 「あれは——あれは、おまえが耿淑夜《こうしゅくや》と図って、〈容〉を乗っ取ろうとしたからではないかっ! なぜだ、なぜ、おまえがこんなところにっ!」  息も絶え絶えに叫んだものの、迫力はない。 [#挿絵(img/07_157.png)入る] 「お知り合いでしたか」 「誤解するな」  卒長のことばに、大牙は即座に反論した。わずかの間でも、一味だと思われては困った事態になりかねない。 「こいつのために、俺は昔、あわやという目に合わされた。〈容〉の執政《しっせい》になる前の話で、それからどこぞへ逃げ出したこいつとは、会っていない。顔も見たくない」  といって、そこで放り出すわけにもいかない。あらためてきつくしばり直させると、冀小狛に縄じりを取らせて、如白の天幕まで護送していった。  だれかが先に知らせたのだろう。天幕の正面に一行が立つより早く、中から方子蘇《ほうしそ》がすさまじい形相で飛び出してくるや、 「いかん、方子蘇どの!」  ふりあげられた右腕を、大牙がとっさに押さえた。その手には、抜きはなたれた剣が握られていたからだ。 「殺すな。まだ、こいつには聞くことがある」  剣をもぎ取ろうとして、大牙と方子蘇はもみあったが、それはほんのわずかの間だった。なかば気を失ったままの|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の、情けない姿を見て、急速に方子蘇の激情は冷めていったようだ。 「——申しわけない。つい、取り乱して。段どのが捕らえてくださったのか」 「こいつは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器という」 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》? たしか、〈衛〉王の夫人の叔父では。では、〈衛〉がこの黒幕——」 「いや、長泉《ちょうせん》の戦の時、敗戦の責《せき》を問われて〈衛〉を出奔している。その後、俺について〈容〉に来ておきながら、〈容〉伯にとりいって、俺に痛い目を見せてくれた。俺が執政になった時、ふたたび〈容〉を逃げ出し、その後の行方は知れなかったのだが」  北方諸国が滅んだ時、大牙の身辺の人間はすべて、〈琅〉に一度、捕らえられている。その中に、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器がいなかったのは明白で、いいわけをする必要はなかったのだが、それでも大牙は、はっきりと無関係を主張する必要を感じたのだ。  少なくとも、いったん疑わしそうになった方子蘇の眼光が、大牙の説明で弱くなったのは事実だった。 「そういえば、あの男、『伯要《はくよう》』云々と口走っていたような」 「伯要——漆離《しつり》伯要?」 「〈征〉が、陛下の生命をねらったのか」  ふたたび激昂《げっこう》しかける方子蘇を、 「いや、ちがうだろう。漆離伯要が〈征〉を逃げ出してしまったからこそ、軌道修正のために曲邑《きょくゆう》に使者が来、そのために貴殿がここまでもどっていたのだぞ。少なくとも、現在の〈征〉の方針ではなかろう」  大牙が、なだめ役にまわった。 「つまり、以前はたくらんでいた可能性はあるわけだ。それを、口をつぐんで和議の交渉をしようとしたのなら、責任は十分にあるぞ」 「いや、知らぬ顔をして、どんな利があるという。〈衛〉に攻められている今、〈琅〉をも敵に回すような莫迦《ばか》な真似を、わざわざするとは思えないが。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が、正しく——というのも妙だが、〈征〉の命令を受けていたとしても、交渉を再開した時点で、〈征〉はこちらへ白状するだろう。逃げているのなら、なおのことだ。隠していて、暗殺が成功した場合、その命令がどこから出ているか知れたらどうなるか、想像がつかないとは思えない。少なくとも、禽不理将軍にはわかるはずだ」  方子蘇を説得するというよりは、大牙もこの時点で懸命に考えていたのだ。こんな時、羅旋なら、そして淑夜ならどう、話に筋道をたてるだろう。どう、事態を処理するだろう。 「おそらく、これは漆離伯要ひとりの企みだろう。禽不理は、知らなかったと考えてもいいはずだ。本人を締めあげてみれば、もっとはっきりするだろうが——」  そこで、天幕の方をみやって、 「陛下の容態は?」 「おお、そうだ。どうぞ、内へ」  方子蘇は、他の者にはその場を動かないように命じて、大牙ひとりを天幕の中へいざなった。  すこし前、大牙を微笑で迎えてくれた男が、天幕の中央に力なく横たわっていた。わずかな血の匂いを、大牙は鋭くかぎとった。いや、その種の匂いにだけ敏感になっているのかもしれない。  かたわらについているのは医師だろう。方子蘇の顔をちらりと見て、かすかに首を横にふったのは、思わしくないという意味か。 「陛下」  方子蘇が低く押さえた声で呼びかけると、如白はかすかに目を開いた。 「大牙どのか」  荒い息の下から、それでも親しみのある声が出た。  大牙は、こんな情景を以前にも見たような気がした。 (そうだ。士羽《しう》兄者の——)  大牙の兄・段《だん》士羽が正気をうしなった太宰子懐《たいさいしかい》に刺された時、彼自身はその場にはいなかった。士羽を直接、看取ったのは赫羅旋で、大牙はすべてが終わった後、結果だけを知らされた。にもかかわらず、この光景が士羽の最期《さいご》と重なったのは、ずっと後になって、淑夜の重い口から克明に聞き出していたからだ。  不吉な予感が、背筋を走った。 「刃に、毒は?」  思わず訊いたのも、そのためだ。  医師の首が、また横にふられるのを見て、ほっと息をつく。 「陛下、刺客は大牙どのが捕らえてくれました。ご安心を」  方子蘇がささやくと、如白は微笑さえ浮かべた。口もとが動きかけるのを、そうと察して、 「なにもおっしゃいますな。奴は、私にとっても仇のような男ですから。陛下のおかげで、捕らえられたようなものです」  わざと陽気にいうと、如白は首を横にふろうとした。 「陛下、おしゃべりになっては」  医師が制止するのを、如白は逆に視線だけで止めた。 「大牙どの、頼みたいことが」 「なんでしょう」  組んですわった膝をぐいと進め、身を乗り出すと、 「儂の後……そなたが選んでくれ」 「何を!」  同じことばが、大牙と方子蘇の口から、ほぼ同時に出た。 「なにをいわれる。私は、〈琅〉では他国者です。そんな資格はありません」 「縁起《えんぎ》でもない、陛下。それに、万が一という場合にしても、〈琅〉には五相がおります。その合議の上でなければ——」 「むろん、五相の承認は、必要……だ。だが、次の王は、その、五相の中の、だれか……。互選するに、しても、だれかが自薦《じせん》して出る場合も、決着、までには時間が、かかるだろう。臨時……の、王で、よいのだ。とにかく、王として、だれかひとりを推戴し、〈琅〉が、結束することが、先決……」 「臨時?」  意外な発想、といえるかもしれない。 「そうだ……たとえば、この戦に決着が、つくまでの、王」  平時なら、王が不在でも、五相が相談して国を運営していくことは可能だろう。だが、合議制は、結論に達するまで時間がかかる。  一方、戦——特に戦場では、一瞬の命令の遅れが敗戦につながることもある。将が下した命令が、瞬時に、水のように上から下へ一直線に流れなければならない。だが、五相がそれぞれ将軍として、各地に散っている現在、同等の立場で判断し行動しては、〈琅〉軍は四分五裂の状態になってしまうだろう。  一時的でよいから、各軍にそれぞれ明確な意義と目的を与え、確実に連動させ、その命令に全責任をとる人物が、どうしても必要なのだ。  だが——。 「反対です。私は反対ですぞ、陛下。段どのには申しわけないが、このご仁はわが国の者となってまだ、一年足らず。五相の間に、親疎《しんそ》の差があります。段どのが誰を選ぶかは、私でも予言できるぐらいです。不公平は、最初から明白」  方子蘇の抗議をさえぎって、 「そうなのか?」  しずかな目で、如白は大牙を見つめた。大牙も、まっすぐに見つめかえす。  茶色味を帯びた如白の眼は、そうして見ると琥珀《こはく》のように透きとおってみえた。その目に、虚言《うそ》はつけなかった。 「はい」  と、大牙がうなずくと、 「一度は、王と、なっただけのことは、ある。いい、度胸だ」  また、如白は笑った。  当然、いわんことではないと、方子蘇が勢いこむ。それを、片手をわずかに上げてさえぎると、 「だから、こそ、なのだ。儂が、何もいわず、に、ここで没すれば、このご仁は、羅旋をかつぎ出すだろう。ただ、かつぎだすだけなら、〈琅〉は、分裂、する」  見透かされていたのかと、大牙は思わず赤面した。と、同時に舌を巻く。  この目の前の漢《おとこ》は、いまわの際に、自分の国がどうすれば生き残れるか、冷静に考えているのだ。自分の死を前提とし、だれがどう動くかを推測し、まちがいないよう手をうっていく。自分の思惑や、好悪の感情さえ抜きにして、だ。  この漢もまた、策士だったのかもしれないと、大牙は思った。 「ただ、だれかが、〈琅〉王にならねば、ならぬのだ。羅旋が、適任ではないとは、儂は思わぬ」 「しかし、安邑には季子どのもおられます」 「季子に、戦は、できぬ。戦功者でいうなら、羅旋か、羊角——」  巨鹿関で羅旋とかわした会話と、あまりにも一致したため、大牙は内心で冷や汗をかいていた。盗み聞きされていたのかとさえ、疑ったぐらいだ。 「だから、方子蘇、おまえには、証人になってもらう。段大牙どのが、推す人物は、おまえも、推せ。そのかわり、戦が一……段落したら、かならず、いったん、退位させ……」 「陛下!」  如白の口もとに、紅い泡が浮かんだ。  医師があわててとりつき、ことばをさえぎろうとして、かえって如白の太い腕にはね飛ばされた。 「陛下、なりません。どうか、安静に!」  大牙と方子蘇とふたりがかりで、腕をおさえる。如白は軽く咳きこみ、おとなしくなったが、口角の血の跡はみるみる広がっていった。 「それに、大牙どのなら、揺珠に悪い、ようにはするまい。約束して……くれ、ふたりとも」 「陛下」  粛然と、頭を下げたのは大牙だった。 「ご信頼を裏切るような真似は、決して。万一、違《たが》えた時には、この身を八つ裂きにされても恨みますまい」 「大牙……どの、は、信頼、できる。あの、夫人や、愛らしい姪御《めいご》を、悲しませる、ようなことは、するまい」  まだ堅い顔つきを崩さない方子蘇に、如白は告げた。 「方将軍——」 「そのような誓約は、不要ですぞ。陛下は、回復される。この程度の傷で、そんな大事になるはずがない、ないでしょう!」  かみつくように叫ぶ方子蘇に、如白は微笑で応えた。 「それでも、だ。誓ってもらわねば、ならぬ」  きっぱりとした口調は、苦しい息を懸命にこらえての結果だ。それがわからない方子蘇ではない。逡巡の末に、 「——承知、いたしました」  がばりと身体を伏せて、彼は口ばしった。 「誓って、くれるか」 「天地神明《てんちしんめい》にかけまして」  聞いたとたんに、ほっと如白の全身から力がぬけた。 「おふたかたとも、もうよろしいでしょう。話はここまでにして、退出ねがいます」  ようやく、医師がここで口をはさんだ。 「陛下、よろしゅうございますな」  如白が意思表示する前に、大牙たちはいたたまれなくなって、たちあがった。  天幕を出たとたん、 「大牙どの、頼みがある」  方子蘇が、思いつめた顔で切り出した。 「なんだ」  思わず身がまえた大牙だが、 「あの刺客、殴らせてもらう」 「それなら、俺ものる」  即座に、うなずいた。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、水を与えられて意識を回復していたが、屈強なふたりが近づいてくるのを見ただけで、また目を閉じてしまった。 「起きろ」  監視をひきうけていた冀小狛が、尻を蹴りあげると、悲鳴をあげて飛び起きるや、 「許してくれ。なんでも、しゃべるから、命ばかりは助けてくれ」  全身を投げ出すようにして、哀訴した。  むろん、ふたりがそんな手にのる道理がない。さすがに手加減はしたが、それでも数発ずつは殴りつけた。  むろん、その後で尋問が始まったのはいうまでもない。  最初に殴りつけたせいか、それとももともとの性格か、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の口は軽かった。 〈容〉を逃げ出してから漆離伯要に拾われるまでのいきさつ、伯要から、〈琅〉の藺季子《りんきし》への工作を命じられたこと、そして見事に失敗したこと。その帰途、命の危険を感じて逃げ出したこと、漆離伯要を見返してやるために、〈琅〉王の命をねらったこと。ひとり、見知らぬ土地で、こそ泥を働きながら百花谷関までたどりついたこと、そして、偶然、野営《やえい》の火で位置を知ったこと——。  聞かれもしないことまで、ぺらぺらとしゃべり尽くしたが、曲邑からこちらの苦労話は、もうだれも聞いていなかった。  方子蘇たちが衝撃をうけたのが、藺季子の件だったのは当然だった。大牙にも、むろん初耳の話だ。 「この件、陛下はご存知だったのだろうか。それで、後継者には不適格だと」  肩を落とす方子蘇を、 「ご承知だったとしても、季子どのは伯要の誘いにはのらなかったのだ」  大牙は冷静になだめた。だが、 「それにしても、こんな男に」  奥歯を噛みしめる思いは、同様だった。  こんなことがあってよいのか、これは夢ではないのかと何度も疑ったが、どうやら醒めそうにもないところをみると現実なのだろう。  皮肉なものだとも、思う。先年、戦に敗れた自分がこうして生き残り、勝者だったはずの藺如白が、今、瀕死の床についているのだ。  これが、天の定めた命数というものなのだろうか。魚支吾が急死した時、天は自分たちに味方したと、ひそかに思ったものだ。だが、こうも簡単に事態をひっくりかえされてしまうとは。  しかも、堂々と戦って敗れるならともかくも、こんな屑のような男の手にかかって。  生命とは、なんと滅びやすいものなのだろう。  自分だけは絶対に死なないと思っているような大牙でも、今夜ばかりは、粛然《しゅくぜん》とせざるを得なかった。  深い闇の中を、永遠にも思える時が流れた。  やがて、ふたたび医師が方子蘇たちに天幕に来るよう、使いをよこした。  如白は、すでに昏睡《こんすい》状態におちいっていた。短い間に、語るべきことをすべて口にしきってしまった安堵《あんど》感からだろうか、その顔は意外なほどに安らかだった。静かに上下する胸の動きだけが、彼の生命の存在を主張していたが——。  やがて、はたりと動きが止まった。  おどろくほどあっけなく、静かな死だった。  その遺体にむかって、大牙は額を床にすりつけるほど深く一礼をすると、すぐさま天幕の外に出た。 「冀小狛、あとを頼む」 「どちらへ。だいたい、こんな夜中に」  事態を察して、さすがに冀小狛の顔も緊張に青ざめている。 「もうすぐ、夜は明ける。義京《ぎきょう》で馬を替えれば、巨鹿関まで五日以内でたどりつけるはずだ」 「おひとりでか」 「馬に乗れる者がいたら、二、三人選んでくれ。いや、それは方子蘇どのに頼んだ方がいいな」 「——知らせるのか」  天幕から出てきた方子蘇が、にらみつけてくるのをはねかえすように、 「羊角将軍にも、知らせてくれ。ただし、将軍本人にだけだ。喪を発する時期は、羅旋に一任していただく。それから、すぐにこの陣営で点呼をとって、全員の所在も確認した方がいい。時が来るまでは、一兵たりとも動くことを禁じてもらいたい」  大牙は口早に告げた。  如白の死を、できるだけ秘しておくための方策である。それが正しいことを、方子蘇も直感的に知っていた。しかも、頭ごなしの命令ではなく、方子蘇に頼むという言い方をしたのは、大牙にしては上出来だった。 「承知した。ただし、羊角どのの判断まで、責任はとれぬが」 「当然だ」 「安邑にも、知らせるが」 「もちろん、そうしていただく」 「では、少し時をいただきたい。馬と人、それに食料なども用意させる」 「ありがたい」  ふたりとも、いいたいことだけをいってしまうと、くるりと踵をかえした。如白の死を悼んでいる余裕は、彼らには与えられていなかったのだ。 「なにが、どうなっているのです。——亡くなられたのか」 「冀小狛、おまえには〈奎〉軍をあずける」 「——主公《との》!」 「俺は、羅旋のところへいく。奴を、王にする」 「なんですと!」 「ただし、臨時の王だ。戦の総大将のようなものだが、戦の趨勢《すうせい》次第では、こちらの思惑どおりにならないでもない」 「はあ——」  冀小狛は、まだ要領を得ない顔つきだったが、それ以上、説明している時間はなかった。玻理が、目の前に立ちふさがっていたからだ。 「あたしも、行く」 「おまえは、苳児と一緒に安邑へもどっていろ」 「いや、あたしも行くわ」 「だめだ。今回ばかりは、俺も無事に帰れるかどうか、約束できん」 「なら、よけいに、ひとりで行かせるわけにはいかない。あたしは、待つだけはいやだ」 「待っていろ」  大牙は、いつになく強硬だった。 「俺になにかあった時、おまえまで死んだら、俺の後を継いでくれる者がいなくなる」 「大牙——!」 「冀小狛。俺が出発してしまうまで、玻理を見張っていろ。できれば、苳児と一緒に安邑へ送りとどけてくれ。方子蘇どのには、俺から話をつけておく」 「承知」  打てば響くような返事が、冀小狛からかえってきた。どうやら、彼も覚悟を決めたらしい。  自分の天幕の中から、手回りの品をいれた革袋だけをひっぱりだすと、もと来た方向へひきかえそうとしたところに、 「叔父上さま」  ひそひそと呼ぶ声がした。 「苳児か。まだ、眠っていなかったのか」  叱りつけてから、この騒ぎでは眠れるわけがなかったと気がつく。  だが、苳児は天幕の間からちらりと白い顔を見せて笑うと、 「お気をつけて。叔母上さまのことは、ご心配なく」 「そうだな」  思わず、苦笑がこぼれた。 「おまえの方が、こんな場合、しっかりしているかもしれん。では、頼む」 「はい。そのかわり、揺珠さまのこと、お願いいたします」 「わかった」 「存分のお働きを。お帰りを、待っておりますから。でも、お早く。わたくしの従弟妹《いとこ》が生まれるまでには、是非」 「そうしよう」  苳児のことばで、すっと心が軽くなるのを感じた。 「段大牙どの。支度《したく》が整いました」  兵が、方子蘇の伝言を持ってくる。 「今、行く」  これから向かう方角から、この夜が明けていく。だが、その先にはさらに深い闇が待っていることを、大牙は覚悟していた。 [#改ページ]  第四章————————玉響《たまゆら》      (一)  漆離伯要《しつりはくよう》が〈衛《えい》〉軍に捕らえられ、新都《しんと》の包囲戦陣中の耿無影《こうむえい》の前に連行されたのは、彼が〈征《せい》〉を出奔《しゅっぽん》してから、ほぼひと月経ったころだった。  漆離伯要自身は、自分から出頭したのだと主張したが、時が経ちすぎていて、納得する者はほとんどいなかった。  そもそも、彼が現れたのは〈衛〉ではなく、〈鄒《すう》〉だった。いったん、無影を訪ねて〈衛〉の国都・瀘丘《ろきゅう》までいっていたのだと伯要は説明したが、いくら出奔・逃亡中の身でも、無影が新都を攻めていることが〈衛〉国内でわからない道理がない。  なにより、〈衛〉から〈征〉に通じる道はどれも、後詰めの兵でいっぱいだったのだ。しかも、戦時の常として城市の門の警戒はきびしくなっていた。〈鄒〉の城門で、先に声をかけたのは、百来《ひゃくらい》配下の衛兵だった。伯要は、顔をかくして入城しようとしたために、怪しまれてとがめられたのだ。  少なくとも、声を先にかけたのは衛兵だったことを、多くの人間が見ている。  腕をつかまれ、逃げられないと悟ってようやく、伯要は名前と身分を明かした。 「私は、〈征〉の執政だった漆離伯要である。奸佞《かんねい》の臣らに謀られて、出国を余儀なくされたものだ。〈衛〉王は賢人を厚く遇《ぐう》すると聞いて、こちらへ来た。〈衛〉国へ亡命するのだ。疾く、〈衛〉王のもとへ案内せよ」  胸を必要以上に反らせて、百来に告げたというが、百来はなんの感銘も受けなかったらしく、 「逃げられぬよう、厳重に注意して護送せよ」  命じると、四方を板で張った箱車に乗せて前線の新都へ送りつけたのだった。 「おのれの不始末が、どれほど重大な結果を生み出したかをさとって、いたたまれなくなり、こそこそ逃げ隠れしていたのであろう」  到着の報を受けて、無影は冷ややかに断定し、数日の間は会おうともしなかった。狭い箱車の中で、漆離伯要は何日もとじこめられていた。ようやく引き出された時には、虚勢《きょせい》を張る元気もなくなっていた。 「一別以来だな」  あきらかに嘲笑がこもった無影の声にも、にらみかえすこともできず、 「その折は、失礼いたしました」  あたりさわりのない返事をするのが、やっとだった。気力もさることながら、予想していなかった手厳しい扱いに、体力の方も相当落ちている。その上、何日も着替えていない衣服のみじめなありさまが、伯要にひけ目を強く感じさせていた。  対する無影は、戦場にあってもその身なりには、一分の隙もない。その日も、城門を見渡せる場所から、攻城の指揮をとってきたばかりだというのに、疲れたようすもなく、衣服にも乱れはない。みごとな美丈夫《びじょうふ》ぶりだった。 「さて、漆離伯要」  無影は、伯要相手に無益なあいさつで時間をつぶす気はなかった。 「おのれからここへ来たと申すからには、それなりの働きをしてみせる覚悟は、できているな」 「は——」  いきなり本題にはいられて、ここでまた、伯要は調子を狂わされた。 「おのれが〈衛〉にとって有益な人材であること、証明してみせる気があろう、というのだ。役にたたない人間を養う余裕は、〈衛〉にはない」 「それは——ご下命いただければ、成しとげられます」 「では、新都をやろう」 「は?」 「一軍を預けるから、新都を攻めてみよと申すのだ。そなたなら、新都の弱点を知っているはず、陥とすことなどたやすいはずだ。陥とせたら、そなたにやろう」 「それは——」  伯要は絶句した。  むろん、〈衛〉に身を投じるなら、そういう事態も有り得ると、想像はしていた。だからこそ、無影が新都を攻めていると聞いて、亡命をためらっていたのだ。 「私は文官で、戦には疎《うと》うございます。戦に慣れぬ者が指揮をとって、お味方に犠牲が出ては申しわけがありません。第一、亡命してきたばかりの私に、兵がしたがってくれますでしょうか」  実のところ、伯要に兵を指揮した経験がないわけではない。それを、無影が知らないわけでもない。だいたい、無影が新都を囲むのはこれが二度目であり、その時、新都の守将として対峙したのは、当の漆離伯要だったのだ。  いいわけにしても、見え透いている。それは承知の上で、それでも伯要はそう言わざるをえなかった。  実は、この時の無影の出兵は、〈奎《けい》〉との密約に基づいている。〈征〉が〈奎〉をはじめとする北方諸国に侵入した場合、〈征〉の後背で行動を起こして牽制するというのが密約の主旨だったのだが、無影は約束どおり、「兵を起こすふり」をした。つまり、新都を囲むだけにとどまり、本気で攻めて自軍に損害を出す気はいっさいなかったのだ。  とはいえ、無影の動きに、先王・魚支吾《ぎょしご》は〈奎〉——北方諸国に深く攻めこむのを断念して、引き返した。ために、北方諸国の半分は、〈奎〉と事をかまえていた〈琅《ろう》〉のものとなり、段大牙はじめ、主だった者たちの身柄も〈琅〉に確保されてしまった。  大軍を発し、望津《ぼうしん》での死闘を経て得たものは、〈容〉一国のみ。無影の牽制《けんせい》は、見事な効果をあげたといえる。もっとも、それを享受《きょうじゅ》するべき〈奎〉は、その時、崩壊していたのだが。  無影にしてみれば、魚支吾にひと泡ふかせることができただけでも、大収穫だったはずだ。その上、当時、新都を守っていたこの漆離伯要が、のこのこと問答に出てきたあげく、失言をして追い返されてくれた。それが噂となって広まり、人々の猜疑《さいぎ》をかっていたという。  無影のせいで北方諸国を手に入れ損なった魚支吾は、なかば意地となって再出兵し、最前線で斃れ不帰の人となった。漆離伯要は庇護者を失い、〈征〉を逃げ出さざるを得なくなった。  無影にしてみれば、「ふり」をしただけで、これだけの結果を手に入れたのだ。笑いが止まらないといったところだが、彼の機嫌は魚支吾の死からこのかた、よい時がほとんどなかったといってよい。  漆離伯要のいいのがれを、最後まで言わせておいてから、 「指揮ができぬというなら、それでもよい。では、攻略法だけを申せ。図面は、すでに用意してある」  最初から、伯要を陣頭にたたせる気などなかったのだ。伯要が言を左右するのを見越した上で、罠をかけていたのだ。しかも、これは、ごく初歩のかけひきだ。 「さ、教えてもらおうか」  大きな帛布《きぬ》に描かれた、矩形《くけい》を前に伯要は胸に重いものがこみあげてくるのを感じていた。  これは、彼の城市だった。彼が構想し、彼が中途まで作りあげた、努力の結晶だった。魚支吾が〈琅〉まで征し終えたら、新しい国の都として遷都してくるはずだった。それは、〈征〉という国を新たに作り直すことであり、そのすべてを演出するのが伯要の仕事のはずだった。  新都は、伯要の夢の象徴だったのだ。  それを、みずからの手で破壊しなければならないのか。  そんな彼の感慨を知ってか知らずか、 「これから〈衛〉に仕えるのなら、新都など必要あるまい。必要ならば、新たに造ればよい。〈衛〉のための新都をな」  無影にはめずらしい甘言だった。 「その時には、弱点のない城市を作ってもらわねばならぬが」  帛布の図面は、おどろくほど正確だった。城壁の高さ、濠の幅などは目に見えている部分だから当然として、営舎の位置や間取り、ひいては収容人数まで推算してある。 「いったい、いつの間にここまで」 「調べたか、か? そなたが新都を建設し始めた時からだ」 「——間者を使われたか」 「いや、そんな無駄はせぬ。出入りする商人たちから、噂話を聞き取っていけば、十分だ」 「商人たちが」 「中には〈征〉の商人たちもいる。故国を裏切ったわけではない。ただ、商品の値上がりだの取引のようすといった、一見他愛ない話からでも、機密はさぐりとれるものだ。特に、尤《ゆう》家はよく働いてくれた」 「尤家? あの女主人の?」 「そちの| 政 《まつりごと》は、商売のさまたげになるといって、手をうったらしい。そなたのよこした書簡を、躬《み》の手元から持ち去っていった。躬が見ていないと思ってな」 「まさか、その書簡——」  心あたりがあった。いつのまにか禽不理の手に渡っていた、あの時候のあいさつ状だろう。 「さて、わざと、先方の手に入るようには仕組んだが、尤|暁華《ぎょうか》がどう処分したかまでは、躬の知るところではない」  もっとも、彼女の行動の予測がつかなかったわけではない。そして、尤暁華が、無影の意図をまったく知らずに、まんまとひっかかったとも思っていない。だが、必要なのは結果であって人の思惑ではないから、無影は気にもとめなかった。 「だが、尤家の女主人が持ち去るところまでは、知っておられたわけですか。いや、わざと持ち去るよう仕向けられたのか」 「ほう」  冷笑が、伯要にふりむけられた。 「まだ、頭が鈍ったわけではないのだな」 「填《は》められたのか」 「人聞きの悪いことを。そちがしてきたことに比べれば、まだ甘いものだ」  とはいえ、謀略好きという点では似たようなものだったし、悪辣《あくらつ》という観点からいえば、無影の方がはるかに上手だった。さらにいえば、 「私が何をしたとおっしゃる」 「魚支吾の厚遇も忘れ、〈征〉一国をひとり占めしたあげく、ぼろぼろにして投げ出したではないか」  その隙につけこんで、攻めているのは当の無影なのだが、伯要は反論ができなかった。  無影も、主君を弑《しい》して一国を奪いとった。だが、主君から厚遇《こうぐう》を受けたことは一度もないといってよい。奪った国は、以前よりも強く仕立てあげ、内政も外交もゆるがせにはしていない。伯要を前に、ぬけぬけと言い切るだけのことはやってのけているのだ。  耿無影に唯一の難があるとすれば、上にたつ者としては性格に偏狭《へんきょう》なところがあり、人を容《い》れる余裕がないところぐらいだろう。 (しかし、それが一番の問題なのではないだろうか)  と、伯要は屈辱にくちびるを噛みながら、心底で思った。 (仕える気があるなら、〈衛〉に来いといったのは、この漢《おとこ》だ。それを頭から信じたわけではないし、それを要求するような真似をする気もない。だが——)  まがりなりにも、仕える気でやってきた人材に、恥をかかせてもよいものだろうか。たしかに今の伯要は、国を追われ行く先もない野良犬のような立場だが、君主を選ぶ自由がないわけではないのだ。ただの庶民にもどる気なら、無影の嘲笑《ちょうしょう》をだまって聞いている義理はない。  彼は〈奎〉王だった段大牙が、〈琅〉の一武将——しかも、傭兵あがりの漢の下で働いていることを思いだしていた。羅旋は〈魁〉の戎華《じゅうか》将軍の息子で、大牙とも旧知の仲だったというから、そのあたりもうまく作用しているのだろうが、少なくとも、羅旋みずからが迎えに行き、頭を下げたと聞いている。 (〈琅〉へ行けば、よかったのだろうか)  伯要は、図面に書きこみをするため、差し出された筆を受け取りながら、漠然と考えていた。  むろん、〈琅〉にもすでに謀士はいる。いまさら伯要が行ったとしても、あの若僧の耿淑夜《こうしゅくや》の下位に置かれるだけだろう。だが、こんな屈辱だけは、まぬがれたかもしれない。聞けば、〈征〉の歩卒で〈琅〉の捕虜になった者が、そのまま〈琅〉兵になってしまった例も少なくないという。居心地がよいのだそうだ。 (だが、〈琅〉がこの漢に対抗できるかといえば——) 〈琅〉軍は巨鹿関を占拠するところまではあざやかだったが、そのあと半年の間、まったく手も足も出してこなかった。攻めあぐねていたのだと、伯要は見ていた。  わずかな隙をついて、速攻をかけてきた無影の果断さとくらべれば、いかにも鈍い。自分の才能に傲《おご》りのある伯要の目には、自分の身を託しきれる国だとは思えなかった。  しかも、〈琅〉は戎族の慣習の影響か、合議制である。王号を称して少しは中原並みになるかと思っていたが、逆に藺如白《りんじょはく》は五人の国相を定めて、合議制を制度化してしまった。五人は、王に対しても無遠慮な口をきき、意見をし、時には反対することもあるという。王を筆頭として、戎族の野蛮な風にすっかり馴染《なじ》んでいる〈琅〉は、一応、礼学の徒であった伯要には、どうしても後進国としか見えない。  伯要の目から見て、魚支吾は家柄といい容姿にそなわった威厳といい、独裁的《どくさいてき》な傾向のある指導力といい、王の名にふさわしい人物だった。彼の同意さえとりつけておけば、何をしようと邪魔ははいらなかったからだ。  魚支吾が亡い今、彼の理想に近い王は、藺如白ではありえなかった。となれば、他に選択の余地はない。 「この、北の門は、王宮の内部に直結しております。王宮は、外部からの攻撃には堅固にできておりますが」  図面の矩形の上——北の方には、白い部分が多かった。完成の暁には王宮として使用する予定の建物群だから、商人が立ち入ることはできなかったのだ。北に王宮を置いたのは、南よりは北の方が防備を手薄にできるからだ。いざという時には、臨城《りんじょう》へむけて逃げるのもたやすい。  だが、こうやって四方を包囲されてしまえば、それもあまり意味はなくなってしまった。 「城壁は、どこも厚く建造してあります。ほぼ完成に近づいていましたから、直接攻撃をくわえても、めったなことで壊れることはないでしょう。城壁をのりこえるのも、容易ではないはず。ただ、城門はまだ、どこも仮づけです。仇士玉《きゅうしぎょく》の手に渡ってから、どうなったかは知りませんが、どちらにしても城門は一枚。城門を破るか、火をかけるのがもっとも早いでしょう」  すでに、四囲にめぐらしてある濠からは、水が抜かれていた。濠の中、城壁の足もとに藁束《わらたば》が積まれているのは、下から煙であぶり、その混乱の間に矢を射かけようという構えだろう。ただし、まだ一度も使用されてはいなかったが。  無影は、新都の城壁を断続的に攻めてはいるが、大規模な戦いはしていなかった。矢も、途中からは青銅の鏃《やじり》に変えている。  鉄の鏃は威力はあるが、射こんでしまえば数が減るのが道理だ。逆に、射こまれた方はそれを回収して再利用できる。やりすぎると、わざわざ敵に強力な武器を提供することにもなりかねない。こんな長期戦なら、なおのことだ。  城内の備蓄がどうなっているのかはわからないが、内から撃ちかけてくる矢がいっこうに減らないことも、無影は考慮にいれた。 「あれは——兵舎や太学《たいがく》、王宮といった建築物の資材に、そういった武器に加工できる金属をふんだんに使用してあるためです。たとえば、兵舎の柱は銅です」  問われて、伯要はすらすらと白状した。  いざとなれば溶かし、錫《すず》と混ぜて鏃に鋳《い》るのだ。 「食料の備蓄も、私が守っていた頃には、ゆうに三月分は。仇士玉が、それを無駄に食い潰したとは思えません」 「水は」 「飲料には適しませんが、井戸があります。通常の倍近い深さまで掘ってみたところ、なんとか出ました。それから雨水を利用できるよう、城壁の内側に、多数、貯水用の槽を設置してあります」  城壁の上部をかすかに内側にかたむけ、溝をつけ、排水用の管もすべて内側にむけて伸ばした。その下に、城壁に付随する形で槽を作り、一滴の雨水も無駄にしないようにしたのだ。 「主な建築物の屋根の下にも、水を受ける水路をつくりました。王宮内の庭には、舟が浮かべられるほどの池があります。一見、奢侈《しゃし》に見えますが——」  その実、濠の水をひきこんでいつも満水にし、いざという時に備えてあったのだ。濠の水が抜かれた時には、逆に内側から水門を閉じて、流出しない工夫もしてある。おそらく、仇士玉もそうしているだろう。 「ふむ、このひと月ほどの間にも、一度、雨がふったな」  ここもまた雨が少ない地方で、夏の間、一滴も雨がふらない時もある。だが、瑤河《ようが》に近いせいか、気温差のできる季節には雨もふりやすいのだ。 「漆離伯要、そなた——」  めずらしく、無影の冷たい貌《かお》に感情が一瞬、浮かんで消えたのを伯要は見た。 「ただ、こういう城市の構想と設計だけに専念していれば、その身も安泰だっただろうに。惜しいことだ」  濠の外では、あちらこちらで大規模な組立作業が進められていた。丸太を荒く組んだ塔か、観楼子《かんろうし》(物見)のような建物だ。その高さは、城壁の高さにほぼ近い。  この上から城壁へ橋をかけ、兵士を斬りこませるための梯車である。まだ完成していないのは、城壁がふつうよりも高く、梯車《ていしゃ》の高さを合わせるのがたいへんだからだ。高ければ、それだけ資材も多く必要だし、頑丈《がんじょう》に作らなければならない。安定性も必要である。  資材はすべて、〈鄒〉から運ばせた。  現地で作らなければどうにもならないものだが、それでも悠長に念入りに組み立てていられるのは、臨城からの〈征〉の援軍が、遅れに遅れているからだった。  禽不理《きんふり》も、懸命になって兵を集め、軍備を整えている。だが、〈衛〉軍を十分に圧倒できる数を集めるのには苦労をしている。しかも、背後の〈琅〉を完全に封じこめておかねばならない。  禽不理も、無影もまったく知らないことだったが、この時点で〈琅〉は、すでに王を失っている。それだけに、禽不理と直接、交渉している羊角は慎重で、簡単には首を縦には振らなかった——というより、何もできなかったのだ。 「多少、時間をかけてでも、犠牲を少なくするつもりだったが——そろそろ、限界だろうな」  と、無影は判断した。  ひと月は、ふつう、援軍が押し寄せるまで十分な時間である。軍勢がそろわなくとも、籠城《ろうじょう》軍を救う意志を内外に示すなら、ぎりぎり限界の時期でもある。  また、漆離伯要のことばが真実なら、新都城内の備蓄は、糧食、武器ともに相当量ある。すべてが尽きて、城内の兵の意気がくじけるには半年はかかるだろう。  じっくりと待つつもりの無影だが、だからといって永久に包囲戦をしているわけにはいかない。 「温涼車《おんりょうしゃ》を、後方へ回せ」 〈衛〉王の陣には、かならず有蓋《ゆうがい》の温涼車がしたがっている。その主は、耿無影の|愛妾※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《あいしょうしん》夫人だと、もはや知らない者はない。  むろん、車の中で寝起きしているわけではなく、本営の無影の天幕の近くに、別の天幕をたて、女兵士を配置してあるのだが、その天幕を車ごと、戦塵の見えない場所にまで移動させたのだ。  漆離伯要も、ふたたび箱車にいれられ、後方へ送られた。 「口説《くぜつ》の徒だ。口ではいくらでも忠誠を誓える。だが、つい半年前までは、おなじ口で魚支吾に取り入り、躬《み》をののしっていたのにちがいないのだ。いつ裏切るか、わかったものではない。少なくとも、新都を陥とすまでは監禁を解くな」  陣頭にたてて、〈征〉軍の目の前にさらすことも考えたが、逆に怒りと戦意をかきたててしまってもまずいと思いなおしたのだ。  おかげで、伯要は新都の門が破られるところを見ずにすんだ。ただし、不自由な箱車の中に、一日中、座ったままだ。食事や生理的要求のために、一日数度、出るのを許される以外は、ようやく足が伸ばせるだけの空間で、じっとしていなければならなかった。  退屈しのぎをするにも、何もない。暇つぶしをしようにも、戦場に、書物の一冊もあるはずもない。換気のために開けられた、格子《こうし》のはまった小さな窓から、限られた空間をながめるよりほか、彼にはすることがなかった。 (やはり、身を託す処をまちがえたのだろうか)  そう思いながら、ぼんやりとながめていた空間を、不意に鮮やかな色彩がよこぎった。 (女?)  色彩は、女のまとった深衣の青だった。そして、艶《つや》やかな緑なす黒髪と、臈《ろう》たけた白い横顔。  侍女らしい数人の女に囲まれているが、その美貌はくらべものにならない。 (もしや——あれが、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》か)  戦場に女がいるという異例さから考えても、別人では有り得ないだろう。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の姪だという話も、耳にしている。そういえば、目もとのあたりに似かよったものがないでもない。もっとも、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は長年の荒淫《こういん》と驕慢《きょうまん》と卑屈《ひくつ》さがそのまま顔にあらわれていたし、目の前の女は感情さえ封じこめた、氷のように澄んだ貌《かお》と瞳をしていたが。 (あれが。あの耿無影が、掌中《しょうちゅう》の至宝《しほう》としてかたときも離さないという)  われ知らず、ごくりと喉が鳴った。  噂だけを耳にしていたころには、なにを莫迦《ばか》なと思ったものだ。たかが女ひとり、大丈夫が執着するほどのものかと思った。耿無影はさすがに、国事をおろそかにするほど莫迦ではなかったが、魚支吾にくらべれば軟弱《なんじゃく》だと伯要は判断し、〈征〉に仕えたのだ。しかし——。 (一国の価値は、あるかもしれない)  大国を手にすることは、人の力でも不可能ではない。だが、目の前の美女の微笑の片鱗《へんりん》は、力ずくではけっして得られるものではない。 (なんということだ)  これが恋情といわれたら、伯要はきっと否定しただろう。そんな浮薄《ふはく》な感情では、たしかになかった。ただ、自分の知らなかった物事が、この世の中には山のようにあるのだと、やっと今になって気がついたのだ。  女ひとりによって変わる歴史もある——有り得てよいのだと。  価値観が、そして世界観が変わってしまったのだ。  伯要は、身動きもままならない箱車の中から、懸命に視線を延ばし、ただ女の姿を追っていた。  その伯要の目の前の|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫も、実はこの時、自身の価値観を変えざるを得ない事実を告げられていた。  国都・瀘丘《ろきゅう》から遠慮がちに書簡が届いたのは、前日のことだった。 「今ごろ、こんなことを教えられても」  読み終えた時、めずらしく連姫はその厚手の紙をにぎりしめた。声は低くささやくようだったが、紙よりも白くなった細い指が、嵐のような感情を示していた。 「暁華《ぎょうか》さま、今ごろ、何故《なぜ》、こんなことをあたくしに教えてくださるのです。もっと早く——でなければ、いっそ永遠に知らない方がよかったのに」 [#挿絵(img/07_185.png)入る]  連姫に告げるべきかどうか、暁華も迷ったのだという。無影にかたく口止めされていたのだともいう。どうしてもだまっていられなくなっての、決心だと暁華は前置きをして、 『……かつて、御身《おんみ》さまのもとへ花を参《まい》らせし方は、陛下に他なりませぬ。御身さまへのご真情、嘘いつわりはないものと察し申しあげます。どうぞ、お心を開いて、陛下とお話しくださいますよう——』  まだ少女のころ、朝早く、窓辺近くに白い花が届けられていたことがあった。送り主はわからなかったものの、連姫には心あたりがあった——いや、あてたつもりだった。  もの静かで、いつも人の陰にかくれるようにしていた内気な少年。ひとつ歳上の彼は、書物の虫で、草花の名にも詳しかった。  同じように植物に詳しかった無影の名を思い出さなかったのは、同じ無口でも、尊大で、いつも他人を睥睨《へいげい》しているような彼に、そんな繊細な思いやりがあるとは、とうてい思えなかったからだ。  孩子《こども》らしい、そして女らしい誤解だった。  きちんと確かめなかった連姫にも、罪はある。だが、女の身で、自分から訊《き》いていくのもためらわれているうちに、耿淑夜《こうしゅくや》はしらぬ顔で義京へ旅立っていってしまった。そして——。 (ひとこと、ひとことでいい。最初に、教えてくれていれば)  これほど無影を憎まずにすんだかもしれないのに。  だが、もう遅い。それ以外の感情で、彼女は無影を見られなくなっている。なにもかも誤解でした、で水に流すには、両者の間にはさまざまなことがありすぎた。ひとつひとつ積まれた冷えた感情は、それこそ新都の城壁のように厚くなってしまっている。 (ならば)  ならば、いっそ知らない方がよかった。ずっと、無影を憎んだまま死んだ方がよかったのに。  連姫の白い絹のような頬に、ひとすじ、涙がこぼれた。 「暁華さま。今さら、わたくしにどうせよとおっしゃいます」  今の連姫には、なにもできなかった。  一夜、泣き明かし、そして夜明けとともに総攻撃が始まっているはずの新都の方角を見ながら、じっと目をこらしていることしか。  何が見えるのか、何を見たいと願っているのか、連姫にもわからなかったが。  新都の城門のうち、東面の門は三つある。その中の、もっとも南の門に向けて攻撃を集中させたのは、ここを囮《おとり》として城内の注意をひきつけるためだった。  むろん、他の門から城兵が出てこないよう、それなりの数を各門に配置してある。それぞれが牽制にみせかけて、一斉に攻撃をかけているが、もっとも激しく攻めかけているのは東南の門だった。  梯車は、計五台が完成していたが、無影はそれらをすべて、東南の門の付近に配置した。そして、弩兵に援護をさせながら、じりじりと城壁へ近づけていく。中からは、矢の雨が降り注いだ。梯車の最上部には、軽装の兵が十数人ずつ乗っており、盾で矢を防ぎながら待機している。車が城壁に横づけされたら、板を出して城壁へ移り、城門を内から開くのだ。  むろん、城兵の中に斬りこんでいくわけだから、捨て身の覚悟である。うまく運べば大手柄だが、斬り死にする確率の方が高い。しかも、城内からは火矢が飛び、煮えた油が撒き散らされる。容易に梯車を近づけないために、すさまじい抵抗がくりひろげられる。一台が、ようやく板の長さまで接近し得たが、兵が渡りかけたとたん、板をはずされた。絶叫とともに、人が落ちていく。その下には、火が燃え移った藁束の山がある。  阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄図を、無影は戦車の上から冷然とながめていた。  彼の身辺にも、ともすると剛弓《ごうきゅう》の主《ぬし》が射た流れ矢が飛んでくる。 「陛下、ここは危険です。後方へお下がりください」  従官たちが声をあげたのは、自分たちの身にも危害がおよびかねなかったからだ。だが、無影は鼻先で笑っただけで、応えることさえしなかった。  東南の門に城兵の注意をひきつけておくためには、無影の姿をさらし続けるのが、もっとも効果的なのだ。下がれるはずがなかった。そして、この戦を仕掛けたのが彼自身であれば、目をそむけることが許されようはずもなかった。 「もう、よいだろう」  血みどろの攻防戦が半日くりひろげられたところで、無影は冷ややかに命じた。 「北門へ、兵を回せ」  その命令で、今まで隠してあった兵力が北門へむけて、一斉に襲いかかった。車輪をつけた投擲《とうてき》器を数台、間近まで寄せると、頭大の石を網に乗せて放ったのだ。  巨大な石では、城壁の高さまでなかなか届かないが、頭大の石ならば軽々とあがってしまう。これぐらいの大きさの上に、勢いがついていれば、直撃すればよくて昏倒《こんとう》、打ちどころが悪ければ死に至る。  当然、城兵は逃げまどう。  その隙に、〈衛〉軍は破城槌《はじょうづち》を持ち出した。  巨大な丸太に車をつけただけの簡単な造りだが、先端を鉄でくるんで補強してある。それを二台ならべて、城門めがけて走らせた。  城門は厚い木材を何重にも貼りあわせ、鉄の帯で止めたものだ。伯要は仮付けといったが、ふつうの城市ならこれで十分なものだった。  そのとおり、一撃ではびくともしなかった城門だが、三撃目でみりみりと音がした。  上からの攻撃を避けながら、さらに四撃、五撃と破城槌が走りこんでくる。城兵も懸命に火矢を射こんでくるが、これだけ丸太が太いと、火はついても燃え広がることはない。なにより、人手の大半は東南の門に集まっており、いくら城内とはいえ、簡単には移動させられない。なにより、東南の門の前には、攻撃側の総帥《そうすい》が姿を見せているのだ。仇士玉《きゅうしぎょく》もまた、東南の門上に立って、直接、指揮を執っていた。 「北門が破られました!」  その報告を聞いた時、仇士玉は天を仰いだ。一瞬で、すべてを悟ったのだ。 「万事休すか」  それでも、仇士玉は抵抗をあきらめなかった。兵士たちには、生き延びたいならば——と降伏を許可したが、 「私は〈征〉の武人だ。みすみす〈衛〉になぶり殺しにされるくらいなら、自らの手で決着をつける」  彼に賛同したわずかな兵とともに、雪崩《なだ》れこんでくる〈衛〉軍の前に立ちふさがった。縦横無尽《じゅうおうむじん》、鬼神《きしん》のような働きとは、このようなことをいうのだろう。剣は鮮血に染まり、足もとにも、胴甲からしたたり落ちる滴が紅い池を作った。矢を全身に受けて、針鼠《はりねずみ》のようになりながらも、 「耿無影はどこだ。貴様が卑怯者《ひきょうもの》でないなら、出てきて私と一騎打ちをせよ」  叫び続けた。 「頭に血の上った手合いとは、勝負はできぬ。卑怯者でけっこう。躬《み》は無駄な危険をおかして、莫迦正直《ばかしょうじき》とよばれる気はない」  無影が、報告を受けて吐き捨てるようにいったことなど、仇士玉は知らない。  その時には、彼はすでに立ったまま息絶えていたからだ。  守将が斃《たお》れたと知って、城内は総崩《そうくず》れとなった。武器を捨てて命乞いをする兵らを、〈衛〉軍は次々と捕らえていった。籠城《ろうじょう》が始まった時、たまたま城内にいた庶民たちもまた、ひとからげに捕らえられ、押しこめられた。  無影は、抵抗しない者を殺すことと略奪は禁じたが、 「仇士玉の首を、城門にさらせ」  厳然《げんぜん》と命じ、その日のうちに実行させた。 「堂々と戦って戦死した者を——」  犯罪者のように辱めることについて、眉をひそめる者もあったにしても、大きな声ではなかった。  翌日、まだ戦の跡の残る南の門から、温涼車が城内に入った。車を迎え入れるために、夜を徹して清められたのだ。  別に東門から、箱車が入れられた。比較的被害の少なかった太学《たいがく》の建物の中庭に、車は引き入れられた。庭の正面、上座にはまだ美々しい甲冑をまとったままの無影の姿、両脇には、〈衛〉の将兵たちが居流れ、下座に〈征〉軍の幹部たちが捕らえられている。  箱車の中からひきずり出された男の姿を見て、〈征〉人の目の中に憎悪の火が点った。 「漆離伯要、貴様が——!」 「静まれ」  一瞬、沸き立った声が、無影のひとことで冷水をかけたように収まった。さほど大きくはないが、有無をいわせない勁《つよ》さが声にあったのだ。 「この男は、今回の戦の一番の功労者である。故に、わが国に高位で迎えることとした。異論がある者があれば、今、この場で申し出よ」  苦い顔をしたのは、〈衛〉軍の方だ。一方、〈征〉人はといえば、 「我はと自負する者は、この男より高位で〈衛〉に召し抱える。遠慮なく、申し出るがよい」  とのことばに、複雑な表情をした。かたくなに拒否の意思を面に出す者と、一瞬、伯要の方へ目を向けた者と。どちらにしても、その目に浮かんでいるのは、権勢欲ではなく復讐の念にまちがいなかった。 「素直に、〈衛〉のもとで働けばよし。拒否する者は、守将どのの後を追ってもらおう。〈衛〉は、〈征〉と違って、無駄な人間を養っておくほどには、豊かではない」  といいながら、伯要を見る無影の目の冷たさに、捕虜たちはいちように震えあがった。  この漢《おとこ》は本気だ。  耿無影はその昔、おのれの一族さえ葬り去った経験がある。縁もゆかりもない人間を殺すのに、ためらうことはないだろう。 「仕える意思のある者は、今、この場で名乗り——」  だが、無影のことばは、走りこんできた伝令の姿で中断した。 「何事だ」 「申しあげます!」  王の怒りの爆発を全身に浴びながら、背中を丸めて伝令は叫んだ。 「西方に異変が——」 「どうした。何ごとが起きたのだ」  と、問いただそうとしたのは武人たちで、無影は聞くやいなや、その場から足早に立ち去っている。 「百子遂《ひゃくしすい》!」  側近として仕える、男の名を呼んだ。 「はい、ここに」  百来将軍の甥《おい》は、主君の背後にぴたりとついていた。 「捕虜《ほりょ》たちを、もとの場所に監禁《かんきん》しておくように。伯要もだ」  指示を出しながら、無影は早くも西の城壁にかけ上っていた。手をかざしてながめるまでもなく、 「あれは、巨鹿関《ころくかん》の方向だな」  煙のようなものが、もうもうと立ち上っているのがはっきりと見えた。炎の煙ではない。黄色い塵が、もうもうと盛りあがっているのだ。移動するようすはないところを見ると、戦塵ではないようだが、 「何でしょうか」  百子遂の問いに、無影はくちびるをゆがめた。 「巨鹿関を閉ざしているのだ、おそらくな」 「閉ざしている?」 「道を塞《ふさ》いでいるのだろう。石を撒いたか木材でも転がり落としたか」  何年前だろう、無影が巨鹿関を攻めたのは。谷の隘路《あいろ》にひきずりこまれた|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、巨鹿関を目指す途上、頭上からの落石のため、手勢《てぜい》の大半を傷つけられた。さらに巨鹿関で火攻めに遭った結果、〈衛〉は苦汁《くじゅう》をなめさせられたのだが、 「今回は、最初から巨鹿関へ敵を入れる気も、自分たちが出てくる気もないということか」  おそらく新都が陥ちたのを見て、畏れをなしたのだろうと、無影は思った。新都を拠点にすれば、〈衛〉は北でも東でも西でも、自在に攻められる。早晩、〈征〉を攻めるために北上するとして、巨鹿関を押さえておくか否かで、士気に影響が出るだろう。有利に戦を展開するためには、巨鹿関を押さえ、完全に新都を〈衛〉の物にしておく必要があったのだが——。 「まあ、いい。莫迦《ばか》どもが、側面から介入《かいにゅう》してこないと、表明しているのだ。今のところは、見逃してやってもよいだろう」  胸の前で腕を組みながら、無影が判断を下した時だった。 「陛下、北を——」  物見の声が、緊張をはらんで北を示した。こちらはまだ、はるかに遠いが、車馬が巻き立てる塵とおぼしい雲が浮いている。 「〈征〉の援軍でしょう。だが、もう遅い」  百子遂がつぶやいたが、無影はむっとした顔つきでそのまま、城壁づたいに北面へと歩いていった。 「あれが〈征〉軍とすると、旗の文字は〈征〉か——禽不理《きんふり》将軍の『禽』のはずですが」  百子遂は、ちかづいてくる雲の中から、巨大な旗を判別していた。 「文字が違うような気が」 「あれは——」  無影の口から、驚愕《きょうがく》がこぼれおちるのを、子遂は初めて耳にした。 「〈琅〉の文字だ」 「そんな莫迦な。〈琅《ろう》〉が何故、西からではなく東、〈征〉の方角から——」 「いかん!」  無影は城壁の端まで走りよった。 「城門を閉じろ。内側に、土嚢《どのう》を積め。いや、板でも石でもなんでもよい。北門を封鎖せよ。早く、早くだ!」      (二)  話は、十日ほど前後する。  暮れ方、巨鹿関の門を西から疾走してきた騎兵が三騎、くぐった。 「羅旋《らせん》、羅旋はいるか!」  先頭の一騎は、酷《ひど》くかすれた声で懸命に叫んだ。悲鳴にも近い声に、何ごとかと兵たちが飛びだしてくる。その前へ、三騎が三騎ともどうと落馬した。同時に、馬たちも前足を折り、横倒しになり泡を吹いた。 「段大牙《だんたいが》さま!」  先頭の騎手の顔を確認したひとりが、羅旋を呼びに走った。他の兵たちが、よってたかって人間たちをかつぎあげ、とりあえず手近な兵舎へ運びこむ。  水を持ってくる者、非常事態と見て警備の強化を命令する者、またおのおのの持ち場に走る者、騒然となる中、 「どうした」  さすがに驚きをかくしきれない表情で、赫《かく》羅旋が大牙の枕元に座った。  その顔にむかって、埃《ほこり》だらけの顔の中から野獣のような目がにらみつけながら、 「人払いを」  かつて聞いたことがないほど、厳しい声音で告げてきた。羅旋と大牙が知りあって、十年以上経つが、これほど大牙が惨《むご》い姿をさらしたことも、これほど真剣になったことも初めてだった。 「わかった」  この関では羅旋と同格の、廉亜武《れんあぶ》ですら出ていくのを確かめて、その上でなお、 「耳を貸せ」  腕をのばしてくるのを、いったんは羅旋も止めた。 「まず、水を飲め。ひどい声だぞ」 「そんな暇はない。とっとと貸せ」  寝床といっても、藁《わら》むしろを何枚か重ねただけの、急ごしらえだ。黙っていると、疲れきった身体でそこからはい出しかねないさまを見て、ようやく羅旋は伸ばされた手をつかんだ。  大牙はすがりつくように身を起こし、羅旋の首に両腕をまわして、やっと身体を支えた。 「おい」 「いいか、よく聞け」  大牙は、かすれた声をさらにひそめた。 「陛下が亡くなった」 「なに——?」  耳もとでささやかれた声を、羅旋は一瞬、認識しそこねた。 「もう一度、言え」 「よく聞けといっただろうが。この声では、つらいんだぞ」 「すまん」  つらいのは、声ばかりではなかったが、 「——陛下が、亡くなられた」 「陛下とは……如白どののことか」 「今、現在、俺とおまえがそう呼ぶのは、ひとりしかおるまい」  羅旋が耳を疑っているのも、愕然《がくぜん》としたまま身動きひとつできないでいるのも構わず、大牙は先を続けた。意識と気力がまだ残っているうちに、告げるべきことは告げてしまわなければならない。  羅旋には、一刻一秒でも早く衝撃から立ち直ってもらわねばならない。そのためには、一瞬でも早く告げる必要があるのだ。 「下手人は|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》だ。背後から操ったのは、漆離伯要」  羅旋の表情は見えないが、彼の全身がかすかに跳ねたのは感じ取れた。 「陛下の遺言だ。次の〈琅〉王は、おまえだ」 「——なんといった?」 「おまえが、〈琅〉王だ。陛下が、指名していかれた。証人は俺と方子蘇《ほうしそ》将軍だ」 「いいかげんなことをぬかすと、承知せんぞ」 「虚言《うそ》をつきに、百花谷関からここまで、飲まず食わずの命がけでやってくると思うのか。俺はそれほど暇ではないぞ」 「——何故だ。おれが、王なんぞに」 「知らん」  知ってはいるが、今、羅旋に説明してやる気力は残っていなかった。 「とにかく、遺勅《いちょく》だ。さからうことは、許されんからな。伝えたぞ」  いいたいことをいい終えたとたん、大牙の全身から力がぬけた。ずるずるとすべり落ちるのを、羅旋は膝のあたりでようやく支えた。 「おい、大牙、段大牙。正気《しょうき》に——」 「おまえが、王だ」 「勝手なことをいうな」 「いいか、逃げるなよ。約束だぞ」  それだけをつぶやいて、大牙はついに気を失った。 「莫迦《ばか》な」  あとに、羅旋の茫然とした顔が残された。 「莫迦な。そんなことが起きて、たまるか。これからという時に」  あまりのあっけなさに、羅旋はことばすら失っていた。 「どうすればいいというのだ。俺に何をしろと。俺が——王だと?」  大牙が錯乱《さくらん》したのではないかと、まず疑った。疲労|困憊《こんぱい》のあまり、妄想を口走ったのではないかと。だが、それでは何のためにここまで、無理に無理を重ねてひきかえしてきたのだろう。  外に出た羅旋の目に映ったのは、倒れたまま立ち上がれない馬たちの姿だった。まだ息はあり、その場で兵たちが応急の手当にかかっている。大牙の従者の兵たちも、他の小屋に運びこまれて介抱されているはずだが、 「そういえば、あれは〈奎〉兵ではなかったな」  馬をのりこなす〈奎〉兵は、ほとんどいない。とすると、大牙は他人の麾下《きか》の兵を護衛に借りて、ここまで来たことになる。よほどの非常事態だ。  すでに周囲には闇がしのび寄り、松明《たいまつ》の火があわただしく振られはじめている。 「いったい、何事が起きたのです」  廉亜武が、ふだんは温厚な顔に緊張をみなぎらせて走りよってきた。 「わからん——そういえば、大牙の従者らはどこだ」 「すぐそこですが、話せる状態ではありませんよ」 「とすると、奴が目をさますまでは、真相の追及は無理か」  確証が手にはいるまでは、羅旋は如白の件を伏せておくつもりだった。というより、 「どうしたというのです、羅旋どの」 「俺にも、わからん。何が起きたのか、俺が何をすればいいのか」  口にしたとたん、「なにか」をしなければならなくなる。それを、羅旋はためらったのだ。  これほど、気のぬけた顔を羅旋がするのは、初めてだった。大牙に意識があったら、めったに見られないものを見たと、手をうってよろこんだだろう。  彼のかわりに羅旋のその顔を見たのは、耿淑夜《こうしゅくや》だった。  その夜半、淑夜が鞍の後ろに五叟《ごそう》老人を載せ、巨鹿関に駆けつけたのだ。夜を徹して馳《は》せてこられたのは、淑夜の愛馬の超光《ちょうこう》の力もさることながら、五叟老人の道案内に負うところが大きい。  方術で、火でない明かりを点し、空中に飛ばして、ずっと道案内をさせてきたのだ。  この術は、術者《じゅつしゃ》の体力の消耗が激しいとかで、 「二度とやらぬぞ、こんなことは」  五叟老人は着くなり、床の用意をするのも待たず、ごろりと横になってしまった。 「まったく、手間ばかりかけおってからに。面倒、見切れぬわい。そろそろ、人の力をあてにするのも、いい加減にしてもらおう……」  毒舌をたたきながら、そのままことりと眠ってしまったのは、ほんとうにめずらしいことだった。 「おそらく、徐夫余《じょふよ》が着くのは明日の朝になるでしょう」  淑夜は、そう羅旋に説明した。 「奴まで来るのか。何がどうなっているのか、さっぱりわからん。わかっているなら、説明しろ」 「大牙は、百花谷関《ひゃっかこくかん》から四騎を連れて来たんですよ。副馬《そえうま》を二頭ずつ連れて。でも、馬はすべて、義京《ぎきょう》でつぶれました。ひとりに二頭ずつ、義京で代え馬を用意したはずですが——一頭は、ここまでのどこかで乗りつぶしてしまったようですね」  すこし、痛ましそうな顔を淑夜はしてみせた。 「義京に寄ったのは、馬を代えるためでした。それから、私に——知らせるために」  むろん、淑夜は大牙から直接聞いたわけではない。大牙は、義京にはいるなり、身分を証明する割り符をほうり投げて馬をよこせと叫び、必要なものだけを手に入れると、さっさと出ていってしまったのだ。かわりに、従者をひとり、淑夜のもとへ残していった。彼が、事の顛末《てんまつ》を淑夜に伝えたのだ。  ちなみに、今ひとりは義京から青城へむかった。青城の守備を今、任されているのは徐夫余である。彼に、巨鹿関まで来るよう、命令を持っていったわけだ。  大牙にしては、的確な判断だった。 「聞いたのか」 「はい。でも、そのようすだと、詳細はまだのようですね」  淑夜は、羅旋の不得要領《ふとくようりょう》な顔つきから、判断したらしい。 「大牙の奴、いいたいことだけ、一方的にいってくたばりやがった——いや、寝ているだけだ。たたき起こしたいのはやまやまだが、あの調子では、当分、何があっても起きるまい」 「では、次の王にあなたを指名した件は?」 「——いった」 「なんですと?」  その場に同席していた廉亜武が、とびあがった。 「なぜ——謀叛《むほん》でも起こされるつもりか。もしそうなら、私は承服《しょうふく》しかねますぞ」 「まだ、話してないんですね」  関の兵士の緊張の度合いからも推しはかって、淑夜は確認すると、 「では、私からお話しします、廉亜武将軍。〈琅〉王・藺如白《りんじょはく》さまは先日、百花谷関の外の野営地で落命されました」 「——!」  無言の衝撃が走るのを、羅旋は奇妙なおももちでただみつめていた。どうしても、実感がわいてこないのだ。廉亜武の驚愕《きょうがく》も、なんとなく芝居がかった夢のような情景にしか見えない。 「確かなことですか」 「大牙のいうことが真実なら。そして、私は大牙を信じます。むやみと虚言《うそ》をいう必要は、あの人にはありません。まして、自分が再び王になるならともかく、羅旋を王にというのですから」 「羅旋どのが——?」  二度の衝撃に、廉亜武の声は裏返ってしまった。 「そ、それを何故、早く教えて——」 「俺にも、信じられんのだ」  羅旋は、苦しい言いわけをした。 「だいいち、如白どのが亡くなられたという確証がない。しかも——しかも、下手人はあの、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》だと?」 「仮に、大牙が虚言をついているとします。でも、方子蘇《ほうしそ》将軍|麾下《きか》の兵までが、口裏を合わせる必要はないでしょう」  大牙が置いていった従者から、かなりくわしい経緯を聞きとっている淑夜は、それだけ、事態を整理して把握していた。 「下手人が|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器というのも、はっきりしています。大牙が羅旋をかついで、謀叛をたくらむなら、なにもあんな小人を恃《たの》む必要はない。自分でさっさと邪魔者をかたづけて、〈奎〉軍どころか、他の兵も乗っ取ってきたでしょう。それぐらいのことは、平然とする人です」  大牙が聞いていれば、あんまりだと怒りそうな言い方だったが、説得力はあった。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、背後に漆離伯要がいたと、白状しているそうです。季子《きし》どのを煽動《せんどう》して、背後から〈琅〉を混乱させようとして失敗、その密使として使った|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器を、〈琅〉と〈征〉の国境付近で殺して、〈琅〉のしわざにみせかけようとして、さらに失敗——」 「すこし待ってくれ、淑夜どの。季子さまを煽動というのは」  淑夜は小さくため息をついて、廉亜武にうなずいてみせた。 「そうです。安邑《あんゆう》で謀叛を起こすよう、そそのかしに来たそうです」 「それを、貴殿は知っていた?」 「予測していました。それで、五叟先生を通じて、季子どのに前もって忠告しておきました。むろん、ことの顛末は陛下もご存知でした」 「なんと——」  絶句する廉亜武に、しかし淑夜は沈痛なおももちをふりむけた。 「これは推測ですが、おそらく漆離伯要の思惑としては、煽動が失敗するのは予測していたのではないでしょうか。成功すればよし、断られたら、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器を謀殺して罪を〈琅〉になすりつければよい。〈征〉の使者の名目は、和平工作だったとでもなんとでもいえます。季子どのが口裏を合わせればよし、真実を語れば、味方から疑惑の目で見られる。どちらにしても〈琅〉に混乱を起こせる——と、計算したのでしょう。漆離伯要の目算が——そして私の予測が及ばなかったのは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が思っていた以上に、機敏に逃げ出したことです。私は使者に、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が来るとは予測していなかった。そして漆離伯要は、あの男が自分の利益になることなら、どんな恥ずかしい真似でも、つらいことでもできる人間だということを知らなかった。実際、無一文で、なりふりかまわず、逃げ出すことぐらい、なんでもない人間です」 「よく、ご存知ですな」 「私の、遠い縁戚にあたりますから」  淑夜が苦笑したのを見て、廉亜武も羅旋もあらためて、彼が〈衛〉の人間だったことを思いだした。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家と耿家とは、過去に何度か姻戚《いんせき》関係を結んだ間で、淑夜とは直接の血のつながりはないが、交際はあった。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家の女・連姫と淑夜たちが幼なじみだったのも、そのためだ。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が生命の危険を感じて逃げたのを知って、漆離伯要もあわてたのでしょう。おそらく、独断で事を運んでいたのではないでしょうか。それが|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の口から公になれば、まずいことになる。王の許可を得てなければ、僭越《せんえつ》の罪で糾弾《きゅうだん》、処罰されるのには十分な理由ですからね。これ一事だけが原因ではないでしょうが、伯要が〈征〉を突然、出奔《しゅっぽん》した理由の中には、この件もかかわっていると思われます。時期的にも、合致《がっち》しますし」 「だが、それなら|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が、何故、陛下の生命をねらった。つけねらうなら、伯要の方だろうが」  羅旋がようやく、わずかながら、ふだんの自分をとりもどして追及した。 「私は、あの男自身ではありませんから、そのところは理解できません。でも、大きなことをやってのけて、目にものを見せてやろうという気になったとしても、不思議ではありません。おのれの実力のなさを棚にあげて、自分は大物なのだぞと、他人にもおのれにも誇示したがる人でしたから」 「迷惑な話だ」  吐き捨てるように、羅旋はつぶやいた。 「あのくずの自己顕示のために、なぜ、一国の王が犠牲にならなけりゃならない。しかも、如白どののような寛容な王が」  廉亜武も、それにはまったく同感だった。  藺如白は、甥の後を継ぐかたちで〈琅〉公になった。不遇の時代が長かったわけだが、それだけに鷹揚《おうよう》で、臣下に対しても、対等に近い態度をとった。羅旋のように自立心の強い漢が、いつのまにか〈琅〉に居着き、責任のある立場をひきうけているのも、如白が彼を信頼し大きな裁量権を与え、また過剰な儀礼や忠誠を要求しなかったからだ。  廉亜武にしても、もともとは〈征〉からの亡命者である。彼自身は縁を切ったつもりだが、〈征〉には一族の人間が、それなりの地位にいる。〈琅〉に来てもう、何年も経つが、疑おうと思えばいくらでも疑える。だが、如白はそぶりを見せたことすらなかった。  個性の強い人間が集まり、好き放題を口にしてなお、戦となれば一枚岩となれたのも、如白が互いの緩衝材となっていたからだ。 「如白どのをかついで、〈琅〉を中原一の強国にするつもりだった。中原の王として推戴《すいたい》するには、絶好の人物だと思っていたのに」  羅旋が、歯ぎしりするように押し出すことばを、淑夜も静かに聞いていた。その粛然とした表情から、彼もまた如白の死を悼《いた》んでいるのだろうと、残りのふたりは解釈していた。 「それで——羅旋。どうするつもりですか」  淑夜は、低い声で尋ねた。 「俺ひとりで、勝手に決めるわけにはいくまい。少なくとも、羊角将軍には使者を出し、よく話しあった上で」 「正気ですか。対等の立場でものをいっても、羊将軍は従いませんよ。このままでは、将軍の判断で、〈征〉と戦端を開いてしまいます。王命として、制止してください」 「そんなことができるか。羊角が相手ならなおのこと、頭ごなしでいうことを聞くとは思えん」 「でも、話しあいなどという悠長《ゆうちょう》なことをいっている暇はありませんよ。今、目の前で、〈征〉と〈衛〉が戦をしている状況で、〈琅〉に空白が生じたら、どんなことになるか」 「わかっている!」  羅旋は、必要以上の大声を出した。 「逆にいえば、〈征〉は〈衛〉にかまけて、こちらに気を逸らしている暇はないはずだ。〈衛〉にしても」 「新都はいずれ陥ちますよ。漆離伯要が、〈衛〉に捕らえられれば、すぐでしょう。新都を押さえれば、この巨鹿関に向かってきます。北へ攻めあがる気なら、新都を安全にしておく必要があるはずですから」 「〈衛〉に捕まるとは限るまい」 「では、彼が逃げるところが他にあるとでも?」 「おまえのいうのは、可能性だろう」 「あなたのいっているのも、可能性です。それも、ひどく楽観的な。血迷っているとしか思えません」 「言ったな」 「事実です」 「淑夜どの。羅旋どのも、声が大きい」  廉亜武が、見かねて割ってはいった。  いくら深夜でも、当然、当直の兵が起きている。まだ、如白の死を兵たちにも公表していない今、下手な形で情報がもれるのはまずい。  もうひとつ、廉亜武はおどろいていた。耿淑夜は、羅旋の腹心だと思っていたからだ。多少ずけずけと皮肉はいうが、淑夜がまっこうから羅旋と対立した場面を、彼は一度も見たことがない。それだけに、これは決裂ではないかと、案じたのだ。  王を失った今、次の王をめぐっての混乱は必至《ひっし》だ。その上に、ここでも仲間割れを起こしていては、崩壊の危機どころの騒ぎではない。この場から、〈琅〉は解体してしまう。  先に視線をはずし、たちあがったのは羅旋の方だった。いつになく厳しい視線でなおもにらみつけてくる淑夜に、 「もう、夜も遅い」 「羅旋」 「徐夫余が来て、大牙が起きたら、改めて話をする。兵たちに話すにしても、明日のことだ。それまでは、だれにももらすなよ。大牙にも従者たちにも、見張りをつけておけ」 「羅旋。どこへ——」 「頭を冷やしてくる」  暗に、ついてくるなと背中で拒絶して、羅旋はつい、と扉をくぐっていってしまった。 「やれ——あの漢でも、迷うことがあるとはのう」  部屋の隅から、低くくぐもった声があがった。 「五叟先生、聞いてたんですか」 「莫迦者、起こされたんじゃ。あんな大声で怒鳴りあっておいて、寝ておれという方が無理じゃろう。羅旋の莫迦声は知っておったが、おまえさんまであんな大声を出すとはな」 「すみません」 「まあ、無理はないがな。あの石頭をあやしていうことをきかせるのは、至難《しなん》の技じゃ。おまえさんは、よくやっている方じゃよ」  廉亜武が、隣で目を剥いた。 「それで、どうする?」 「どうするも何も。羅旋以外に、今の〈琅〉をまとめられる人間がいると思いますか。廉将軍、いかがです」 「私は、個人的には賛成です。しかも、陛下の遺勅があるとするなら、なおのこと」 「ただ、他の者がどう出るかだな」 「方将軍は承知したそうです。ただし、条件づきですが。ただ、羊角将軍と藺季子どのがどう出るか。血統を重視するなら、季子どのを名目上だけでも王にたてる方が、兵の動揺も少なく、他国の干渉も防げるでしょう。ですが」 「季子どのでは、いかにも頼りない」 「羊将軍も、それはご承知のはず。でも、血による継承など、今の時代にはほとんど意味はないとわかっていても、先入観をくつがえすのは大変ですから。早急に、説得するしかありますまい。ことによったら、私が行ってもいいつもりでいますが——」 「肝心のあの王さまが、あのざまだ」 「何故——羅旋どのは、王位に就くのを拒否するのです。ふつう、王になりたくて謀叛を起こす者はあっても、差し出された玉座を否定する者はありますまい」 「廉将軍、ならば、御身が王位に就かれてはいかがじゃ」 「あ、いえ。私にはそんな器量は」  平凡を絵に描いたような漢である。 「あの漢も、同じじゃ。おのれの力量をよく知っているからこそ、恐れもする。ここへ来て自信をなくしているのかもしれん。いや、逃げておるのかもしれん」 「にげる?」  これほど、羅旋に似つかわしくないことばはないだろう。 「さよう。長い間、ひとりでふらふらと傭車なんぞをやっていたのも、そのせいじゃ。人の上にたてば、その分、人の運命にまで責任が生じるからの。ま、それでいて、根は面倒見がよいのじゃから、矛盾しておるがな。〈琅〉へ来て、好きなことができるようになって、ようやく腹が座った。おのれについてくる連中の責任は、とる覚悟もできた。大牙の身柄も、ああやってひきとった。だが——〈琅〉一国となると、やはり大きすぎる。戦をしていればいいというものでもないしの。奴ほど神経の図太い漢でも、二の足を踏むのは無理もない」 「五叟先生」  淑夜が、ふいに低く声をかけた。 「羅旋が、王にふさわしいと思いますか」 「儂は、だれが王になろうが、気にはせん。だが、奴が上にたてば、おもしろいことにはなるじゃろうな」 「おもしろい?」 「さぞ、型破りな王ができるだろうよ。なにしろ、前例というものが通用しないからの、あの漢の場合。ま、いろいろと新しいことができるじゃろう。その分、騒動も起きるじゃろうが、まあ、退屈はせずにすむと思うぞ」 「ちょっと、出てきます」  淑夜は、音もなく立ち上がった。かたわらに転がしていた杖をひろいあげはしたが、身体の動きはなめらかで、歩いてみなければ左足に欠陥があるとは思えない。 「どこへ」  とは、五叟老人も廉亜武も訊かなかった。 「気をつけるのじゃぞ。月はもう、隠れたからの」  五叟老人の声が、淑夜の背中に響いた。  羅旋の居場所をつきとめるのには、すこし手間がかかった。当直の衛兵にたずね、姿を消した方角へふみこんだものの、灯もなく、天には月もなく、かすかな星明かりがあるだけだ。  淑夜は夜目がきくわけではない。一方、羅旋は闇夜でも、動物なみに物が見える。夜光眼《やこうがん》とよばれる、特殊な夜走獣の目をもっているからだ。その目は、彼を西の草原から引き離すことになった。そういう意味では凶眼だが、淑夜はその夜光眼のおかげで生命をひろいあげられた。  杖で下草をさぐりながら、細い獣道をたどっていると、 「何をしている」  罵声が、すぐ上からふってきた。 「来るなといったはずだぞ」 「心配してきたんじゃありません」  淑夜は内心、ほっとしながら、声のする方角にむかって即座に応えた。  羅旋の顔どころか、姿も見えない。だが、むこうからはこちらが見えるのはわかっていた。 「では、何をしにきた。説得に来たのなら」 「訊きたいことがあるんです」  噛みつくように、羅旋のことばをさえぎった。そのいきおいに、 「なんだ」  羅旋はすこし、鼻白んだようだ。 「ずっと、もう何年も訊きたいと思っていたことです。今夜こそ、教えてもらうべきだと思います」 「だから、なんだ」 「士羽《しう》さまは最期に、あなたに何をいいおいていかれたんです?」 「なに——?」 「段《だん》士羽さまです。大牙の兄君の」 「そんなこたぁ、わかっている」  羅旋の声の不機嫌が、倍加した。 〈奎〉の二公子だった段士羽は、義京の乱で衷王《ちゅうおう》を救出に向かって失敗。揺珠《ようしゅ》は救いだしたものの、彼自身は太宰子懐《たいさいしかい》の凶刃に斃《たお》れた。その才能と無欲さ、未来を見通す目と、おだやかで明るく人好きのする気性、そして弟にも負けない胆力の持ち主だった。士羽が没した時、もっとも嘆いたのは羅旋だった。  士羽を——士羽をこそ、〈魁〉の王にしたかった、と。  その嘆《なげ》きは、今夜の如白に対する悲嘆と微妙に重なる。  羅旋が不機嫌になるのも、無理はなかった。 「今さら、なにをいったい訊きたいんだ」  だが、淑夜も動じない。 「士羽さまが義京の乱で亡くなった時、最期までつきそっていたのは、羅旋、あなたでした。あの時、士羽さまが何事か、あなたに告げているのを私は見ています。距離があって、声までは聞こえませんでしたが。何をいい残されたんですか」 「俺にも、聞こえなかった」 「虚言《うそ》です」  羅旋にしては気弱な否定の声音に、淑夜は即座に反応した。 「この期に及んで虚言をつくなら、私はここから、この足で新都へ行きますよ。〈衛〉軍の中には、無影がいます。よろこんで、謀士にしてくれるでしょうよ」 「おまえこそ、虚言をつけ」  反論はするが、羅旋の声にはいつもの精彩がなかった。 「私は——私たちは七年の間、あなたに遠慮してきました。士羽さまを助けられなかった責任を、痛いほど感じているあなただから、それ以上、責めるような真似はしたくなかったからです。でも、士羽さまの遺志を、最期の頼みを無駄にするのなら、私も大牙もそれなりの覚悟があります。いってください」 「…………」 「羅旋。いってください」 「『——あとは任せる』」 「羅旋」 「『まかせるから、君が王になれ』と」 「やはり、そうでしたか」 「どうして、わかった」 「口の動きと形で、推測しました」 「それを、大牙には」  無言で首を横にふる。この暗闇だが、羅旋にははっきりと見えているはずだ。 「なぜ、いわなかった」  がさりと音がして、大きな影が目の前にたちふさがった。緑色の光点が、ちらちらと炎のようにまたたいている。 「確証がありませんでしたから」 「いえば、大牙がすねるとでも思ったんだろう」 「それも、あるかもしれません」  淑夜は、すこし笑った。  大牙は、年齢の離れた兄に心服していた。〈奎〉伯の嗣子の座を譲ってくれた兄が、他人には王になれとそそのかしたと聞けば、なんで俺ではないんだとわめくぐらいのことはしただろう。本人に、王になる気はなくとも、だ。 「で、なぜ、その遺言に従わなかったんです。あなたは、うなずいたはずです。士羽さまとの約束を、反故《ほご》にする気だったんですか」  淑夜は、話をもとにもどした。 「俺が、王になんぞなれるわけがなかろう。ただの、傭兵に」 「いいのがれは、よしてください。あなたらしくない。その気になれば、いくらでも方法はあったはずです。現に——」 「俺は、そんな柄じゃない。それより、人をたてて、その下で働く方が」 「そうやって推戴しようとした人物が、二度までも死んだんですよ。いいかげん、気がついたらどうですか」 「俺が疫病神だとでもいいたいか」 「それは、私も同じことですよ」  軽い自嘲《じちょう》が、淑夜のくちもとを横切る。 「なにしろ、私が身を寄せた国は、ことごとく滅んできていますからね。ただ、私は自分のしてきたことを、後悔はしていません。するなといったのは、羅旋、あなたですよ」 「————」 「後悔しているのは、羅旋の方でしょう。士羽さまをみすみす死なせてしまった悔いが、ためらわせているんでしょう」 「おまえ、そうやって人の傷を暴きたてていると、そのうちに殺されるぞ」  つまり、図星《ずぼし》ということだ。 「あなたは昔、士羽さまを将に将たる器だといった。では、自分が何者だか、考えたことがありますか」 「俺は、ただの戎《じゅう》族だ」 「羅旋は、王に王たる器ですよ」 「何を莫迦な」 「現に、元・王をひとり、その配下にかかえている」 「あれは、なりゆきだ」 「私としては、無影よりあなたの方が、よほど王としてふさわしく思えます。大牙もあなただからこそ、頭を下げる気になったはずです。他に頭を下げられる人物が、この中原にはもう、いないのも事実です」  如白なら、この漢の器量をうまく使いこなしたかもしれない。制御しきったかもしれない。彼は魚支吾たちに比べれば才気ばしったところはないが、身体の中になにか、ぽっかりと大きな空洞のようなものがあった。その空洞に、羅旋らは楽々とおさまっていたのだ。  だが、無影の中にはそんな余裕はない。幼い魚佩《ぎょはい》ではなおのこと。大牙と淑夜自身が、ようやく彼の思考と行動力についていける程度だ。 「もう、あなたの手綱をとってくれる人は、この世にはいません。あなたが、あなた自身の王になるより他、ないんですよ」 「——淑夜」  低く、うめくような声が影から発された。顔こそ見えないが、淑夜には想像がついた。茫洋として陽気な戎族の顔が、今は苦悩にゆがんでいるはずだ。それを無視して、淑夜は天を仰いだ。 「このぐらいの季節でしたか。もう少し、前でしたか」  それ以上いわなくとも、羅旋にはわかった。初めて出会った時のことだ。 「私は十八でした。頭に血が上って、後先も考えずに無影の生命をねらって、敗れました。無影を殺せないなら、生きている意味はないと、すさまじい痛みに耐えながら考えていました。——星がきれいでしたよ。昏《くら》いのは、天ではなく地上でした。それぐらい、天は明るかった。そして」  夜光眼の方を向いて、淑夜は微笑《わら》った。 「生きたいかと訊いてくれた、あなたの声もまた、目がくらむぐらい明るかった」 「くだらんことを、憶えてやがる」  声が、少しすねた。  淑夜はとりあわない。 「いま、この谷にいる人間はみんな、生きたいと思っています。〈琅〉の人間も皆。あなたが、王位を拒否するということは、彼らを全部、放りだすということです。私に生きることを命じたあなたに、そんなことができるはずがない」 「勝手に決めるな」  という声が、すでに微苦笑をふくんでいるのを、淑夜はしっかりと聞き取っていた。 「覚悟、してもらえますか」 「おまえたちに、かつがれろというのか」 「あなたに足らない分を、私たちが手伝うといっているんですよ。大牙も、壮棄才《そうきさい》どのも五叟先生も、手伝ってくれる人材には事欠かないと思いますが」 「いったん引き受けたら、もうひきかえせないんだぞ」 「そんなこと」  淑夜はまた笑った。 「いまさらいってもらわなくても、知っていますよ。では、承知してくれますね」 「いわなきゃ、ならんか」 「だめですよ。でなければ、あなたは言を左右して逃げてしまう。いってくれれば、いいことを教えてあげますよ」 「ひとつだけ、条件がある」 「なんでしょう」 「俺を、後方に回すな。俺は必要となったら、真っ先に飛び出す。それを止めるなよ」  淑夜が深くため息をついた。 「実力で止められるのは、大牙ぐらいなものでしょう。わかっていますよ、そんなことは最初から」 「わかった。王になる。なればいいんだろうが」  大きな嘆息とともに、決定的なことばが発された。 「では、大牙がいい忘れていたらしいことを教えましょう。陛下——いえ、先君は、羅旋を臨時の王にたてろとおっしゃったそうです」 「臨時、だと?」 「戦が一段落するまで、暫定的《ざんていてき》に王に立てろと。事態が落ち着いたら、五相で話し合って、次の王を決めるようにと」 「この野郎——」  填《は》められたことに気づいて、羅旋の声がはねあがった。彼の表情が、淑夜には見えるような気がした。殴られることも覚悟したが、淑夜は逃げなかった。羅旋も、どうやら激情は押さえこんだらしい。 「覚悟していろよ。この代償《だいしょう》は高くつくぞ」 「それも、最初から承知の上ですよ。ですが、羅旋、どちらにしても、戦が有利な方向で一段落すれば、王位から降りるのはむずかしくなりますよ」 「そして、勝たなけりゃ、生命がないわけだ。よくわかった」  緑色の夜光眼が、ふい、と天を仰《あお》ぐのを淑夜は見たと思った。 「生きることを考えよう。そして、できるだけ大勢が生き残ることを。知恵を貸せ、淑夜。これから、こきつかうぞ」 「望むところですよ」  天は、銀砂を撒いたような星空だった。      (三)  翌朝、巨鹿関には三組の来訪者があった。もっとも早く現れたのは、数人の手勢《てぜい》を連れた徐夫余だった。  彼は、現在、青城《せいじょう》の守りと整備を命じられている。誠実な人柄をかわれてのことだが、文事には不慣れなことから、壮棄才が補佐としてつけられていた。温厚な徐夫余は、無口の上に陰気な壮棄才ともうまくやっているらしい。  そのふたりが顔をそろえてやってきたことで、関の守備兵の動揺も大きくなった。  これ以上、隠してはおけないと淑夜が判断し、喪を兵たちにも伝えることにした。幸か不幸か、〈琅〉軍の兵組織は、数人ずつの小隊から成り立っており、見慣れない顔がいても、まただれかが行方をくらましても、すぐにわかるようになっている。公表の前に点呼をし、その後にも人数を確認するという念を入れたのは、むろん、新都を目の前にして細作《さいさく》が紛れこむのを警戒したためだ。  というのも、徐夫余たちがやってきた直後、けもの道づたいに東からやってきた者がいたからだ。 「——漆離伯要が、〈鄒《すう》〉にて捕らえられ、新都へ送られました。今ごろは、到着しているはずです」  こちらから送りこんでいた細作の報告だった。 「これは——展開が早くなってきたの」  舌なめずりするような言い方をしたのは、五叟老人だった。 「数日以内に、新都は陥ちるでしょう。すぐに、羊角将軍に使者を送りましょう。山越えをすれば、三日か——急げば二日で、着くはずです」 「〈征〉を攻めるのか」  直前にようやく起きてきた大牙が、まだ寝乱れた頭で訊いた。 「なぜです」  と、淑夜はひとことで切って捨てる。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》をあやつっていたのは、漆離伯要個人です。彼の独断にまちがいないでしょう。そして、今、漆離伯要は〈衛〉が押さえている。いえ、『かくまっている』といい直しましょうか」  めずらしく、淑夜が人の悪い笑い方をした。羅旋が、その背後でにやりと笑う。  羅旋は、昨夜の短い上衣と袴、乗馬用の長靴という姿のままで、王らしい威儀を正す気配もなく、行儀悪く足を組んで座りこんでいた。  淑夜のことばを聞いた人々の反応は、ばらばらだった。壮棄才はにこりともせずに下を向き、廉亜武は不思議そうな顔をした。大牙と徐夫余が、一瞬、おどろいた表情を見せ、大牙がすぐに笑いだした。 「そうだな。これは、奴の論理だ。文句のつけようがあるまい」  八年前、無影の暗殺に失敗した淑夜が、巨鹿関を無事に通過したのは、〈奎〉が彼の身柄をかくまったせいだ——といいがかりをつけて、攻めよせてきたのは当の耿無影だ。むろん、ただの口実で、本気でそう思っていたわけではない。ただ、 「王|弑逆《しいぎゃく》の犯人を引き渡せ、という要求は、立派な大義名分になります」 「応じたら、どうする」 「有り得ません。そんなに簡単に引き渡せば、無影の面目はまるつぶれになる。しかも相手側には、私がいるんです。意地でも、渡しませんよ」  さすがに、淑夜のことばには説得力がある。 「新都を攻めて、今、われわれを脅かしているのも〈衛〉です。少なくとも今は、〈征〉と利害が一致しているのだから、協力し利用することを考えるべきです。〈征〉との交渉は、羊角《ようかく》将軍におまかせしましょう。そういえば、五叟先生。曲邑《きょくゆう》へ鳩を送れませんか」 「今、訓練中じゃ。確実に着く保証はできんぞ」 「それでけっこうです。やってみる価値はある。それから、安邑へも鳩を。季子どのと、方子蘇将軍へも指令を送ります」 「どうする気だ」 「〈衛〉の西辺は、がら空きですよ。こんな絶好の機会がありますか」 「俺たちはどうするんだ。ここで、高見の見物か?」  大牙が不満そうな声をあげた。寝不足で、まだ疲れが抜けきっていないためと、 「羅旋が、淑夜の説得に降参する場面を見そこねた」  とかで、総じて機嫌が悪いのだ。  その声を、 「むろん、〈衛〉へ攻めこみます」  平然と、淑夜はいなした。 「兵力が少ないのに、さらに分散させるのは不利でしょう。上策とは思えませんが」  と、反対の声をあげたのは、廉亜武。彼の方が正論である。ただし、通常、正面きって激突する場合の話だ。 「相手の不意を衝くんです。むしろ、分散した方が有利です。敵が意外なところから現れれば、混乱は必至です」 「しかし、巨鹿関から出ても、迎え撃たれるだけだぞ。不意うちにはならん」  とは、大牙の弁だ。 「だれが、巨鹿関から出るといいました。巨鹿関は、閉じるんです。このために、仕掛けを用意してあります。それで、通行止めにしてしまって、我々は別の道を使って〈衛〉へはいります」 「百花谷関を回るのも、同じことだぞ。しかも、時間がかかる。方子蘇と足なみを合わせていては、これまた不意打ちの意味がない」 「だから、だれが関を通るといいました」  機嫌の悪い大牙をあつかいかねたか、淑夜が、つい面倒そうな口調になった。昨夜、羅旋と今後の方策を練っていたため、ほとんど眠っていないのだ。 「俺から説明した方がよさそうだな」  羅旋が見かねたか、身を乗り出してきた時だ。 「赫将軍——いえ、陛下!」  衛兵が飛びこんできて、三組目の来訪者を告げたのだった。 「公主《こうしゅ》さまが、玉公主《ぎょくこうしゅ》さまが義京からおみえです!」  足が悪いにもかかわらず、まっさきに飛びだしていったのは、淑夜だった。 「揺珠《ようしゅ》どの!」 「淑夜さま、新しい〈琅〉王陛下にごあいさつにまいりました。案内してくださいませ」  揺珠は車ではなく、馬上から淑夜に告げたのだ。彼女に馬を教えたのは淑夜だが、さすがにこれにはあぜんとなった。 「おひとりで、こんなところまで、馬で来られたんですか。危険な真似を。万が一のことがあったら、どうする気ですか」 「あら、ひとりではありません」 「騎兵ひとりでは、十分な護衛とはいえません。小参《しょうしん》、なぜお止めしなかった」 「止めたんですが」  羅旋の麾下の、顔なじみの少年は、淑夜の非難に困惑してみせた。むろん、彼が黙ってついてきたはずがないが、力ずくで公主を止められる道理もない。 「どうぞ、この子を責められませんよう、淑夜さま。時を急ぐ必要があったのですわ。それに、わたくしがご相談する前に、先に行ってしまわれたのは淑夜さまではありませんか」 「それは、そうですが」  馬を降りる揺珠に手を貸しながら、淑夜は口ごもった。彼女に、最後の近親である伯父が没したことを直接告げられず、あとを使者にまかせて飛び出してきたのだ。その点からいえば、責められるべきは淑夜の方だ。  揺珠は乗馬用の袴と長衣の上に、さらに全身をつつむ白い麻の深衣を、ふわりとはおっていた。喪の衣装だが、それがかえって揺珠を人外の者のように美しく見せていた。  淑夜のあとを追って出てきた羅旋たちも、揺珠の姿を目にするや、その場で足を止めて、ほうとため息をついたほどだ。  揺珠の方は羅旋の姿を見るや、すべるように歩みより、軽く腰を折り礼を執った。 「陛下に、ごあいさつ申しあげます」 「——玉公主。このたびのご不幸、心よりお悔やみ申しあげる」  羅旋も軽く頭を下げた。彼は、揺珠が危険をおかしてまで、巨鹿関へ来た意味をいち早く察していた。  この娘は、〈琅〉王のただひとりの姪なのだ。政治向きに口を出す立場にはないが、彼女が羅旋を次の王として支持するということは、内外に対して強い印象を与える。また、彼女を庇護するという名目で、羅旋の権限も大きくなる。  突然、伯父を失ったのだ。衝撃も悲嘆も、激しいものがあったはずだ。だが、揺珠は顔をまっすぐに上げ、巨鹿関へかけつけてきた。私の悲しみより、公の立場を優先したのだ。 「では、羅旋さま。お受けくださいますのね」 「こいつらに——」  大牙たちの方をさして、 「脅されました」 「人聞きの悪い。おまえが優柔不断な態度をとるからだ」  大牙が憤然と抗議した。 「俺たちが見張っていなければ、こいつは、この場から単身、姿をくらましていましたぞ、揺珠どの」  正確には、目を離さなかったのは淑夜なのだが、そのあたりは上手に棚上げをする。 「人を暴れ馬のようにいうな」 「それでも、伯父の頼みを聞きとどけてくださいましたわ」  揺珠は、にこりと微笑う。羅旋も苦笑して、 「それにしても、よく馬を飛ばしてこられた。ここまで上達しておられたとは、思わなかった。玻理も顔負けだな」 「そういえば、大牙さま、うかがいましたわ。おめでとうございます」 「え——?」  その場の全員の視線が、大牙ひとりに集中した。 「なにが、めでたいんだ? そういえば、玻理はどうした。なぜ、一緒に来なかった」  馬の扱いなら、下手な男より上手い戎族の女だ。しかも弓の腕といい、護衛としてはだれより信頼できる存在のはずだ。その妻を、ひとり百花谷関に残してきた理由といえば、 「お生まれになりますのよ」  揺珠の微笑と、 「大牙さま」 「これはめでたい、大牙どの」 「この野郎、なぜ、さっさといわない」 「そんな暇があるか。俺はさっき、たたき起こされたばかりだぞ」  羅旋や徐夫余がわっと上げた声と、大牙の抗弁がいりまじった。揺珠の微笑が、壮棄才を除くその場の全員、兵卒たちの顔にまで映ったようだった。 「ありがとうございます、揺珠どの」  淑夜が、小さな声で頭を下げた。 「これで、皆の士気がまったくちがってきますよ。あの調子では、大牙は自分からは絶対にいい出さなかったでしょうし」 「よろしゅうございました」 「今、部屋を用意させます。お疲れがとれたら、護衛の兵をつけますから、できるだけ早く義京へおもどりください」 「あら、わたくしは帰りません」 「揺珠どの!」 「最初から、そのつもりで来ました。あなたと——羅旋さまと一緒にまいります」 「なにをいっているか、わかってますか」  昨夜から、羅旋の説得という大難事をこなし、今後の方策を練り、神経を使った上の寝不足だ。その上に、思ってもいない揺珠の無理難題に、淑夜の我慢《がまん》が限界に来たらしい。思わず飛び出したぞんざいな口調に、逆に揺珠は声をたてて笑いだしてしまった。玉が触れあうような、かろやかな音が響いた。 「笑い事ではありませんよ、揺珠どの。私たちはこれから、戦をしに行くんですよ」 「ええ、予測はしてきました」 「強行軍になります」 「足手まといには、けっしてなりません。馬にも乗れるのは、ごらんのとおりです」  義京からここまで、休まず馬を疾走させるだけでも、たいした技量なのだ。ついてくるだけなら、問題はない。だが——。 「しかし、婦人を戦に——」 「玻理さまは、同行なさってましたわ」 「立場を考えてください。公主殿下が、戦になど」 「わたくしはもう、公主ではありません。今の〈琅〉王は、羅旋さまですもの」 「だからといって……」 「おい、淑夜」  ふたりの押し問答に気づいて、羅旋がわりこんできた。 「お連れください、羅旋さま、いえ、陛下。陛下ならば、おわかりのはずです。わたくしがひとり、義京に残った場合、どんなことになるか。後背を無防備にするようなことがあっては、なりませんでしょう」 「揺珠どの……」  羅旋も、さすがに困った表情で天を仰ぎ、 「陛下というのは、勘弁してくれ」  話をはぐらかした。 「羅旋さま」  ふだんはやさしい揺珠の目元が、きりりとつりあがった。 「しかし、なあ、揺珠どの。戦でもしものことがあった場合、如白どのに申しわけがたたん」 「わたくしを置いていかれるなら、わたくしはひとりで羊将軍のもとへまいりますわよ。そこで、羊将軍がわたくしを旗印に、こちらに背くようなことがあっても、責任はとりかねます」 「脅すつもりか」 「いいえ。でも、わたくしが義京に残れば、わたくしを拉致《らち》して、大義名分をわが物にしようという者が、かならず現れますわ」  彼女は、名目上はまだ〈魁《かい》〉の王太孫《おうたいそん》の妃である。王が没して、後継者が幼少である場合、また決まってない場合などには、妃が暫定的に聴政を行い、後継者を指名するという慣例がある。むろん、実質は廷臣たちがほとんどをとりしきるのだが、最終的に妃の同意がなければならなかったのも事実だ。  慣例からいえば、最後の〈魁〉王・衷王が崩御した後、次の王を定めるのは揺珠の役目だった。たしかに〈魁〉王の位など、今は何の権威もなくなっている。だが、たとえば無影が〈魁〉の後継者としての承認を手にいれれば、それが大義名分になる。〈魁〉の復興を叫べば、心理的に抗しきれない人間もいる。いざ戦となった時の、兵の士気に大きくかかわってきかねない問題なのだ。  いや、場合によっては、揺珠の身柄を確保した上で、彼女を王にかつぎあげるという方法もある。王としては前例のないことだが、一般の女子の相続がまったくないというわけでもない。現に、尤暁華《ゆうぎょうか》は直系男子が絶えた家と財産を継いで、女主人となっている。商家ではあるが、かなり上流の家柄で女子の相続が認められているのだ。揺珠の相続権が、まったく主張できないわけではない。  そして、揺珠ひとりの拉致なら、大軍は必要ない。屈強な男が数人もいれば、巨鹿関を避けて侵入し、さらいだすことぐらい雑作もないはずだ。たとえ揺珠の権利を他国が否定したとしても、最低限、〈琅〉に対しては十分有効な人質にはなる。 「それなら、義京の警護を強化すればよいことでしょう。それとも、安邑にもどるか」 「兵の無駄ですわ。それでなくとも、〈琅〉は不利なのです。戦には、一兵でも必要なはず。安邑にもどるにしても、その途上の安全はだれにも保証できませんでしょう」  理路整然と説明されて、大牙や徐夫余までが横でうなずいている始末だ。  羅旋も淑夜も、お手上げの状態だった。 「特別扱いは、望みません。泣き言も申しません」  救いの主は、五叟老人だった。 「それなら、儂があずかろう」 「先生!」 「儂もおぬしらに同行はするが、どうせ戦に直接出るわけではない。馬にも乗れんし、足手まといというなら、儂の方がよっぽど邪魔なはずじゃ。揺珠どのの馬に乗せてもらえれば、道中であろうが、戦になろうが、儂がずっと一緒にいられる。拉致の心配もない。なにかあっても、方術のひとつふたつ使えば、身は守れるし、ちょうど、適任だと思うがの」 「無茶ですよ、だいたい——」 「それとも、なにか、淑夜。儂がなにか揺珠どのに、悪さでもすると疑うておるのか」 「莫迦なことをいわないでください。なんで、私が!」 「五叟、からかうんじゃない」  ぱっと顔を紅潮させた淑夜に、羅旋が助け舟を出したが、 「では、問題はなかろう。よろしくな、揺珠どの」 「はい、先生。お願いいたします」  話はふたりの間で決まってしまった。 〈琅〉には医師として仕え、揺珠の兄・藺孟琥《りんもうこ》を最期まで献身的に看取ってくれたこの老人に、揺珠は全幅《ぜんぷく》の信頼をおいていた。男には厳しい五叟老人も、揺珠には甘い。 「しかたがない」  羅旋の方が、あきらめが早かった。 「女が戦場に在った例がないわけでもない。いいだろう、揺珠どの。ただし、我々の命令には従っていただきますぞ」 「羅旋!」 「揺珠どのの身辺の手配は、淑夜、おまえの仕事だ」 「これ以上、私の仕事を増やす気ですか。これから、どれだけの手配を——」 「やれるのはおまえだけだから、仕方がない。壮棄才、こいつの仕事をすこし、引き取ってやれ。支度にかかれ。新都の状況次第では、すぐにでも出発するからな」  三日後のことである。 〈征〉の国都・臨城で、禽不理がとんでもない報告をうけとった。 「たいへんでございます。〈琅〉の——〈琅〉の羊角将軍が単身で、臨城の城門に来て、閣下との面談を望んでおります!」  真偽を疑いながらも、とるものもとりあえず城門まで、彼はみずから出向いていった。どんな用件にせよ、何者にせよ、城内に入れるのは考えものだったからだ。  一応、こちらから出した使者が案内に立っての来訪だが、前触れもなく、単身、敵地にのりこんでくるというのは、やはり尋常ではない。何事か、たくらんでいるのではと疑うのが、常識というものだ。 「直にお目にかかるのは初めてじゃな。羊角と申す」  札を連ねた胴甲をまとい白い髯を風になびかせて、埃だらけのその老人は悠然とあいさつをした。  正確には彼ひとりではなく、戦車の左右に甲士を同乗させ、伝令らしい騎馬兵も数人、従っている。だが、戦車は一台きりだった。 「禽不理と申します」  年長の老将軍に、禽不理は敬意を表した。 「おお、お目にかかれてさいわい。急ぎの用が出来しましてな、使者の口では隔靴掻痒《かっかそうよう》。埒《らち》があかぬと思い、自分でしゃしゃり出てまいりましたぞ」 「どうぞ、城内へ」  羊角の装備や従者の数を確認して、禽不理は問題はないと判断した。たしかに今は非常時なのだ。さらに、この老将軍を直接、目で見て、禽不理は直感した。一筋縄《ひとすじなわ》であつかえる人物ではなさそうだが、信頼はできるだろうと。  自分の直感を信じ、その上で、正式の国使の待遇で迎えようとしたのだが、 「いや、のんびりともてなされている暇はないのじゃ。ここで話そう」  羊角は車から降りてきた。 「往来で、ですか」 「さよう。まず、禽不理どの、先日、わが国の王・藺如白が急逝《きゅうせい》したことをお伝えする」 「それは——」  愕然となったところへ、 「弑《しい》されたのじゃ。下手人は|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器と申して、かつて〈衛〉の将までつとめた男だが、その背後に、漆離伯要という人物がいることが判明した」  羊角はたたみかけた。 「漆離……!」 「たしか、貴殿の前の〈征〉の執政《しっせい》でしたな」 「たしかに。いや、しかしながら、漆離伯要は不正を働き、逐電《ちくでん》。現在は〈征〉にはおらぬ——」 「ご心配なさるな。なにも〈征〉の非を責めようというのではない。漆離伯要の独断ということは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の自白からもあきらか。さらに、漆離伯要の身柄は、ただいま、〈衛〉の手に落ちて、新都の包囲軍の中にあるそうじゃ」 「〈衛〉に——」  禽不理が、ほっと肩で大きく息をしたのを見てとって、 「さて、そこで相談なのじゃ、禽将軍」  羊角は、にやりと笑った。 「わが国は、前王の仇をとらねばならぬ。仇は〈衛〉にかくまわれており、おそらく引き渡しを迫ってもかなうまい。そこで、実力を行使することにした」 「〈衛〉を攻めるといわれるか」 「新都を囲まれ、援軍も思うように出せず、貴殿が苦悩しておいでなのは、よく承知しておる。双方にとって、〈衛〉は共通の敵じゃ。手を結ぶことはできると思うが、いかがかな」 「それは——」 「わが国は、漆離伯要と、奴めをかばう耿無影を討ちたい。奴らめは、今、新都を囲んでいるわけじゃから、我らも新都に向かいたい。だが、曲邑から百花谷関を回り、巨鹿関から出るのは時間がかかりすぎるし、おそらく出口で待ち受けられ、たたかれるだけじゃ。そこで、貴殿に相談なのじゃ」 「まさか、道を貸せといわれるわけではあるまいな」 「さすがは、禽将軍じゃ。話が早い」  羊角は、呵呵《かか》と高笑いした。 「ただでとはいわぬ。それなりの代償は払おう。当然のことだが、決して貴国の民には危害《きがい》をくわえぬ。藁一筋でも奪った者は、厳罰に処すと約束する。糧食も、十分に用意しておる。水さえ提供していただければ、それ以上のご迷惑はかけぬ。いかがかな?」  具体的で、しかも的確な提案だった。 「あまりにも意外な、しかも突然の申し入れで——」 「時がないのじゃ、禽将軍。ためろうているうちにも、新都が陥ちますぞ。仇士玉という将は、若いがなかなかの漢と聞いておる。壮士を、犬死にさせるおつもりか」  たたみかけるのはかけひきだが、羊角のことばは事実でもある。  ちなみに、「道を借り」て〈征〉国内を突っ切るという策は、羅旋からの指令だった。如白の訃報と、羅旋の推戴《すいたい》という報を方子蘇から受け取った時、羊角はそれを素直に承認したわけではない。古風な彼は、藺季子を立てる方が筋ではないかと、反発もし葛藤もしたのだが、方子蘇と廉亜武が羅旋側に回っては、抵抗しても不利なことはわかっていた。藺季子が、非常時の王としては実績がないことも事実だ。その上に、鳩の使いが、揺珠が羅旋を支持すると伝えてきて、 「ふむ、一時だけというなら、仕方がない」  羅旋の命に従うことを承知したのだった。  さらに、にらみあっていた〈征〉と手を結び、〈衛〉を急襲するという思い切った思考の逆転と、道を借りるという意外な策には、目を見張った。 「おそらく、羅旋どの本人の発案ではなかろう。淑夜か壮棄才か、どちらかの知恵であろうが——なるほど、人材が違うの」  羊角の麾下に、勇猛果敢な者はいくらでもいるが、今回の事態に、積極的に動くべきだと進言してきた者はいない。まして、不利を逆手にとって、一挙に〈衛〉を攻めようなどとは、羊角ですら考えなかった。これが成功するようなら、もう羊角の出る幕はない。  彼は苦笑して、従うしかなかった。  とはいえ、単身で臨城まで乗りこんだのは、羊角の判断である。そして、禽不理と直接に交渉し、巻きこんでしまったのは、羊角の度胸と人柄と誠意だった。 「誓約が必要ならば、いくらでもする。なんなら、儂が人質になってもよい。とにかく、道が借りられるなら、貴国の要求はすべて呑むようにと、命じられてきたのじゃ」 「わかりました——」  気迫に圧されて、禽不理は喉を鳴らしながら、ついにうなずいた。 「これから、陛下のご裁可を仰がねばなりませぬが」  だが、魚佩は禽不理のいうことには逆らわないだろう。  それをすべて承知した上で、 「返事をいただくまでは、ここで待たせていただこう」  羊角は、城門前の大路の中央に、どかりと腰をおろした。その姿には、なんともいえない風格が漂っていた。 「至急、もどります故」 「おお、そうじゃ、禽不理どの」  背を向ける漢を呼び止めて、 「肝心なことをいい忘れておった」  羊角は、楽しそうに付け加えた。 「前王の崩御によって、当然のことながら、わが国は新しい王を立てることとなった」 「ほう、どなたに決まりましたか」  藺如白に実子がないのは、知られている。 「赫羅旋に引きうけさせた」 「赫——羅旋!」  今度こそ、禽不理は目をまわしそうになった。  赫羅旋といえば、傭車あがりの戎族ではないか。それが、辺境の後進国とはいえ、〈魁〉王家とも繋がりのあった〈琅〉の王になる。そんな無茶なことが、あってよいものか。  だが、羊角は笑ってはいたが、虚言《うそ》をついているようには見えなかった。 「そういうことじゃ。では、よろしくお願いいたす」  軽く黙礼する老将軍を前に、禽不理はあわてて王宮の方へとってかえすしかなかった。 「全軍、分散して山を越えます」  淑夜は、一部、巨鹿関に残す手勢を除いて、動かせる全軍を、十人から三十人ずつの組に分けた。 「山脈を越える道は、けもの道をふくめればかなりあります。それを使って、ばらばらに〈衛〉へ入るんです」  車が大量に通れるように整備された道路は、たしかにないが、人の足で越える分にはいくつもの道が昔からあった。小商人たちや、伝令たちがよく利用していた道だ。中には、関で徴収される税金をのがれるために使われたぬけ道もある。淑夜と羅旋が出会ったのも、巨鹿関をそうやって迂回する道すじだった。  むろん、初めての人間なら確実に迷ってしまう、複雑でわかりにくい道もあるが、 「昔、俺と一緒に傭車をやっていた連中がいる。そいつらを、案内人としてひと組にひとり、配置する」  羅旋が補足した。  昔、義京の場末の小屋で、羅旋の下に集まっていた男たちの多くは、乱の時に離散したが、羅旋が〈琅〉にいると聞いて、すでに集まってきている。前身は盗賊だったり、逃亡してきた農民だったり、とさまざまだが、全員が羅旋に心服していることは間違いがない。むろん、全員が馬に乗れる。彼らが、これまで〈琅〉の騎馬軍の中核になっていたのだ。昔、羅旋とたどった道を、少人数で踏破することなど、彼らにはたいした仕事ではない。 「ただし、集合の期日と地点は厳守してください。遅れる者は山中に放置してでも、先へ進むように。例外は認めません。本隊は、期日には先に進発します。うかつに動きを知られて、相手に防備の余裕を与えるわけにはいきませんから」  淑夜が、きっぱりと宣言した。  大軍による力攻めができない以上、拙速《せっそく》を択《と》るしかないのだ。しかし、これはおそらく中原の歴史上、最速の軍だ。 「最悪かもしれんがな」  と、羅旋がよけいな口をはさんだ。  羊角には〈征〉の糧食を奪うなと厳命しておきながら、羅旋は自分たちの軍には、山越えのために最低限必要な量しか、携帯しないことにしたのだ。 「荷物は、できるだけ少なくしろ。必要なものがあれば、〈衛〉国内で調達する。奪ってもかまわん。耿無影があわをくって引き返してくるように、派手に暴れてやれ」  もともと、気の荒い羅旋の麾下が、これでわっと沸きたった。羅旋は、必要以上に士気をあおろうとしており、淑夜も今回ばかりは止めなかった。  巨鹿関には、廉亜武とその麾下の精鋭《せいえい》だけが残る。新都が陥ちるのを確認したら、この手勢で、巨鹿関を封鎖するのだ。このために、途上の斜面に羅旋は仕掛けを多数作らせている。杭を二、三本引き抜くだけで、大石や木材、土砂が崩れおちて道を塞ぐようになっている。 「あとで、とりのぞくのが大変だがな。ま、俺たちが最終的に負けていたら、それは俺たちの仕事じゃない。勝っていたら、ゆっくり直しても問題はなかろう」  そう、羅旋が腕組みしながら笑っていうと、ひどく簡単なことのように思えるから不思議だ。  兵力は、羅旋の麾下の騎馬兵にくわえて、廉亜武の軍の歩卒で編成した。それに、義京や青城の守備のために、以前から、羊角たちの軍から歩兵を借りてある。戦車はまったくない軍だが、 「それでいい。どうせ戦車では山は越えられない。数も十分だ。義京も青城も、空にしていい。歩卒と騎馬兵だけで、〈衛〉の横腹をひっかきまわしてやる」 「前代未聞の戦になりますね」  まんざらでもない顔で、淑夜が笑った。 「戦車も甲士もいない、戎族や庶民のよりあつまりの軍が功績をたてたら、〈衛〉や〈征〉の士大夫たちはどんな顔をするか、見物ですよ」  特に耿無影の、ということばは、飲みこんだが、羅旋にはわかっているようだった。 「出発の日は指定しない。準備ができ次第、各自、南へむかうように」  命じられて、徐夫余と壮棄才があわてて青城へもどっていった。 「これが、俺たちの本来の戦のやり方さ」 「要するに、いちかばちかの博打《ばくち》じゃないか」  大牙が、羅旋の隣でぼやいた。 「とはいえ、その博打に負けた人間が、何をいっても無駄か。さ、行くか」 「おい、命令を出すのは、俺だぞ」  たくましい黒馬をうながして、羅旋がつい、と先にたった。  革を重ねた胴甲と、やはり革製の手足の甲、衣服は袴に裾の短い上衣。さすがにこざっぱりとしたものだが、これが王号を称する人間かと思うほどの軽装である。  従う者たちも、大牙や淑夜たちでさえ同様の軽装は、馬にできるだけ負担をかけないための配慮だ。 「大牙、ひとつだけいっておく。子どもの顔は、ちゃんと見てやれよ」 「おまえに、そんなことをいわれる謂われはない!」  大牙が、歯を剥いていい返した。照れたのである。  それにはかまわず、 「淑夜、揺珠どのを頼む」 「はい——!」  結局、淑夜は揺珠と五叟老人を護衛する組に入れられた。強引に命じたのは、羅旋である。 「行くぞ」  さりげないひとことで、彼らはそれぞれに動きだした。騎馬を急がせる者、ゆっくりと歩きだす一隊。その行き先も、やがてばらばらと別れていく。  新都が陥ちる、三日前の早朝のことだった。 [#改ページ]    あとがき  最初からなんですが、目が壊れました。右目が突然、痛みだしたかと思うと腫れあがり、一時は顔の半分がみごとに変形しました。強膜炎《きょうまくえん》という病気だそうで、原因は不明。というより、通常は原因がわかる前に治ってしまうものなのだそうです。それでも、十日以上、仕事も家事もできなかったのは、痛みに加えて、腫れのために右目と左目とが連動せず、家で座っていてさえ乗り物酔いするという莫迦な状態だったためでした。  しかも、一度、再発させてしまい——以後、恐怖の毎日をすごしています。今のところ、薬が効《き》いて無事ですが。目がすぐに充血してしまうため、ワープロでの深夜の作業を減らさざるを得ませんでした。  まったくやっかいなことになったもので、たった十日で予定が大幅に遅れてしまいました。もっとも、この本の刊行が当初の予定から遅れたのは、同じ出版社からハード・カバーの短篇集「非花(はなにあらず)」が出ることになり、編集等の都合上、ずらす必要があったためですが。  とにかく、お待たせいたしました。やっとのことで七巻・暁闇《ぎょうあん》篇をお届けいたします。物語のスタート当初から、シリーズの最後からかぞえて二巻目の篇名は、「暁闇」と決めていました。暁闇とは、夜明け前のもっとも深く寒い暗さのことをさします。暗闇を通りこした後には、朝が待っているという意味をこめて、篇名に選びました。もちろん、内容ははずしていないタイトルですが——本来の予定どおりなら、とっくの昔に完結している物語を書いていて、なんと絶妙なネーミングだったのだろうと、我ながら感心したくなってしまいました。むろん、皮肉をこめてです(笑)。  さて、内容に関しては、ここでは申しますまい。ラストが目前に迫ったために、大あわてで国と人の大リストラにかかっていますが、長さはともかく、予定していたシーンやセリフは着々とこなしております。女性陣が、あいかわらず書きこみ不足なのは、もうあきらめていただきましょう。彼女らは、それぞれの男たちの支えになる存在として、陰からこの物語をあやつっているというのが、どうも正解のような気がします。今時分になってそれがわかったのかと言われれば、それまでですが。  それから、気がついてみたら、主役級たちがまたしても、ほとんど行方不明だったのは、今回と次の巻とで前後篇になるよう構成をしたためです——と、いいわけしておきましょう。正直な話、これまで六巻分で積み残していた問題を、この巻でとりあえず決着をつけようとしたため、ものすごい力技をかける羽目になりました。でも、作者本人も覚えていない積み残しが、きっとあるにちがいない。その場合は、目をつむっていてくださるかこっそりと作者までお願いします(笑)。  ともかく、次巻はまちがいなく、羅旋たちと無影の全面対決、フル出演となる……はずです(笑)。  キャラクターの整理もだいぶついたことだし、余人をまじえず心おきなく(特に無影が)悲劇を演じてくれることでしょう。  ちなみに、次巻・最終巻の篇名は「天壌《てんじょう》」篇となる予定です。今度こそ、それほど間をあけずにすむと思います。この本が出る頃には、最終巻の原稿にかかっているはずですから。  まだ最終巻が完成してない段階で、こういうのもなんですが、つくづくこの物語は長かったと思います。当初、二、三年で決着がつく予定だったのが、こちらの計算違いと、環境の激変のせいで毎年ずれていき、気がついたら、なんと今年で足かけ七年(笑)。こんなに間をあけてだらだらと続く物語を、読んでくださる方がいるのか、常に不安をおぼえながらの七年間でした(お手紙がほとんどなかったものですから)。それも、今年中にはなんとか、決着がつくはずです。  フィナーレにふさわしい巻になるかどうかはともかく、当初から用意していたことばだけは、かならず書きたいと思っています。おそらく、読者さんから見ればさりげないひと言のはずですが。  万感の思いをこめて、そのセリフを書ける日を夢見つつ、今回はこのあたりで失礼します。  最後に、毎度のことながら、ご迷惑をおかけした関係者各位に感謝とお詫びを申しあげます。とはいっても、目の件だけは私のせいじゃないんですけど(笑)。  では、多謝、そして最終巻で再見。  一九九八年三月 [#地付き]井上祐美子 拝 [#改ページ] 底本 中央公論社 C★NOVELS Fantasia  五王戦国志《ごおうせんごくし》 7 ——暁闇篇《ぎょうあんへん》  著者 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》  1998年4月25日  初版発行  発行者——笠松 巌  発行所——中央公論社 [#地付き]2008年8月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・女牆《じょしょう》→ 前巻までは・女墻《じょしょう》 ・つき固めただけもので、 置き換え文字 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26 躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56 顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71 |※《き》 ※[#「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28]「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28 |※《しん》 ※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88